新・駅長日誌Ⅱ

観光列車、駅ノート、鉄道保存施設、
廃線跡と猫ヨシヨシ。…稀に木村。
毎日更新します。

クラ駅長50年史 ㉓

2023/04/15(Sat)

今週もまた土曜日が巡ってきましてので「クラ駅長50年史」の記事
を挟む事に致しますクラ駅長です。…今年はホントに「やるべき事」
多いので、外に出て書いた記事少なくなってすいません。


今回は1995年平成7年ですね。例によってWikipediaから同年
の世相や出来事を拾ってみる所から始めましょう。

…てかもぅ、阪神淡路大震災オウム真理教関係の色々だけで
ページの殆どが埋まってるような気がしますが。

震災の発生1月17日の早朝です。奈良では直接の被害少な
かったものの、ウチの実家木造なので結構な揺れを感じました。

…で慌ててテレビを点けたら神戸市周辺エラい事になってて
陽が昇って時間が経つにつれ、犠牲者を含む各地の被害明らか
になっていく感じだったのを覚えています。

関西に住んでる大多数の人が、同じような状況だった筈ですよ。

オウム真理教はソノ何年か前から世間を賑わせてたのが、同年
になって過激な事件推測される件も含む)を多数起こし、3月
地下鉄サリン事件…で5月教祖や幹部逮捕されました。

事の良し悪しは別として、当時のワイドショーネタが次々と
ある状態だから、不謹慎喜んでたスタッフが多かったでしょう。

平和な所では4月統一地方選挙東京(青島幸男)大阪
(横山ノック)の2名のタレント候補者同時に知事に当選した
とか、野茂英雄投手がアメリカのメジャーリーグに移籍したとか
書いてあります。

トヨタ「コンフォート」「クラウンコンフォート」を発売し、日産
「セドリックセダン」現在の形になったのも同年の事なんですね。

何れも現在は生産中止となってますが、私には公私ともに馴染み
深い車両です。てか今も両方乗ってるし。


同年の鉄道に関しても、やはり上記の2件による影響は大きかった
筈ですよね。震災直後関西の鉄道殆どが運休し、揺れが特に
多きかった神戸市内では、復旧に数ヵ月を要する区間もありました。

地下鉄サリン事件では電車や駅そのものにも被害が及んだし、同年
便乗犯だと思われる異臭騒ぎ複数あったように思います。

一般的な所では東京「ゆりかもめ」新規開業や、地方の第三
セクター路線などを中心に駅の増設が多く見られます。


さて私は4月から大学4回生となります。…上記の阪神大震災
地下鉄サリン事件前年度内の出来事なのですが、前回で述べた
ゼミの伊勢旅行準備~実施の時期と見事に被るんですよ。

主要な先輩の1人にボランティア馬鹿な人が居て、こっちの仕事
放置したまま神戸の被災地へ出掛けてしまい、何の引き継ぎも
なくイキナリ仕切る事になった私らの学年無駄に大変でしたが。


ともあれ今回は前回に予告した通り、伊勢旅行「サポートカー」
について先に説明しておきましょう。

今と違って徒歩旅行が当たり前だった近代以前は、宿場町茶店
などの街道沿いの施設は当然に今より充実してたワケで、基本的
には1日で使い捨てにする草鞋茶店などでコンビニ感覚で買えた
らしいし、疲れたら休める場所も多かった筈ですよね。

現代敢えて徒歩旅行をする場合、その辺が各段に不便なので、
参加者の荷物を積み、お茶や弁当などを別ルートで手配して
事前に決めた休憩場所まで先回りする係が必要になるんです。

…私は当時から無駄に走り回ってた事がゼミの先生や先輩
にも知られてたのか、3回生でソレに任命され、翌年も続けて担当
する事になりました。

元々車で走る事好きだし、団体旅行の仕切りをするのも得意
なので適材適所な人選だったと思うんですが、この仕事は荷物
運びなどが短時間に集中するし本隊に対して常に気を遣うから、
下手すると歩くより疲れるんですよ。

また当時のレンタカー貨物系殆どがMT車だったので、当然
の事にギアチェンジとクラッチワーク連続でしょ。…2日目辺り
から左腕と左脚筋肉痛になります。

歩きの人たち宿バンテリン脚に擦り込んでる横で、私も
左腕にソレを塗ってました。


4回生になると部活は基本的に引退し、卒論や就職活動専念
する事になる筈なんですが…

直接の口出ししないものの自分の写真を撮るのは楽しいし、
長期休み駅でバイトしてるだけだし、ゼミ勉強より旅行の
準備などが忙しいし。で殊に就職活動に関しては殆ど真面目に
やってなかったように記憶してます。

その結果、卒業後全くやる気がなかった仕事16年も続ける
羽目になるんですが…詳しくは次回以降で紹介しましょう。


最後に楽しかった話を1つだけ…
写真部の同期は最初、ともぅ1名のアニメおたくの男2名だけ
だった所へ、いきなり3回生から女子が1人入ってきました。

Мさんと言う人なんですが、可愛い系ではなく肝っ玉母さんみたい
なキャラなのが逆に付き合いやすく微妙に仲のいい関係になり
かけたんですよ。

…尤も向こうに遠距離恋愛の彼氏が居るらしく、具体的にどう
言う事は無かったんですが、よく一緒に行動してました。

彼女名古屋の出身でして、私はコノ時以来「女性の名古屋弁
に弱い」と言う特性が身に付いてしまったような気がします。

後に木村鉄道社長(木村)つるぎさんと出会うワケですが、
この下地があるからもぅ大変

どのように締めたらイイのか分からなくなりましたが、日曜日
「考えるシリーズ」ですか。久し振りにamebloネタでも検索
してみる事にしましょうか。

→次回に続く



※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。

No.1476 ○○について考える

クラ駅長50年史 ㉒-2

2023/04/09(Sun)

1994年平成6年書くべき事が多いので、日曜日の本日も
「クラ駅長50年史」のネタを続ける事に致しますクラ駅長です。

…私は同年は4月から大学の3回生であり、前回は「学校で何を
してたのか?」と言う事で勉強(ゼミ)に関して書いたワケですが、
今回は部活(写真部)について思い出してみましょう。


ずっと一般的な呼称として「写真部」と書いてますが、正確には
「写真研究会」と称してました。…コレは同大学の慣例と言うか、
サークル研究会」「正式な部活」と言う区別があったから
なのですよ。

ウチは元々サークルから始まって、途中で「部」に昇格したものの、
名前を変えるタイミングを失ったからだと思われます。

「部」になると文科系「文化会」スポーツ系「体育会」と言う
上部団体に属する事になり、委員を送ったりする必要がある反面、
活動費の補助などが貰えると言う仕組みでした。

…で何をしてたのか?

大きな行事としては学校外で行う写真展年に2回と、学園祭
学校内のスペースを使って行う写真展1回あり、基本的にはソレ
に向けての作品創りと言う事になりますね。

日々の生活旅行先などで写真を撮り、その中から展示出来そう
な物を選んでいく感じになります。

当時の事だから、デジタル写真と言う物は(あったかも知れんけど)
一般には普及しておらず白黒のフィルムで撮ってソレを現像し、
暗室印画紙に焼き付けると言う作業です。

割と広い暗室があって、高校のソレより格段に立派な設備でしたが、
ソノ分写真の撮り方現像作業に関して、カナリ高いクオリティ
求められる所でした。


まず入部すると1回生は同年の7月頃にある「新人展」に向けて、
先輩の指導作品創りを始めるワケですが、被写体「子供」に
限定されています。

…「子供に話し掛けながら撮る」と言うのも技量のうちだからなん
だそうで、休みの日に奈良公園とかに行って親子連れに頼んで
撮らせて貰うんですが、肖像権に関してもユルい時代だったん
でしょう。今同じ事をするのは時代的に無理かも知れません。

何事も「まず基本から」と言う事で、レンズ50mm限定オート
フォーカス不可、焼く時の画角トリミング不可でした。

…後に加藤ゆかさんと言うプロの写真家さん写真展に行って
ソノ話をしたら「ソレは写真学校のレベルです」と言われましたが。


撮った写真サービス判の印画紙に焼き、週に2回行われる
「例会」に出して「こんな意図で撮った、こんな事を伝えたい。」と
発表し、他の部員からの意見を得て通れば写真展に出せる
言う流れになります。

そもそも撮り方作業の基準厳しいもんだから、最初のうちは
先輩から酷評されてナカナカ通らない。ユルく撮りたい写真
撮りたいだけの者には鬱陶しいルールだったかも知れません。

加えて言うと、一緒に活動してる先輩(又は同級生後輩)から
批評されるのはイイとして、たまに顔を出すだけOB連中
口出しするのはカナリ嫌だった覚えがあります。

私の前年に入った代は、それが嫌1年持たずに辞めた者が
大半であり、私も最初は「何で自由に出来ないのか?」疑問
でしたが、そのうちに慣れてしまいました

…後にルールが変わり意見を得て「それでも出したい」「撮り
直してくる」自分で選べるようになります。

風景や静物のように撮り直しが可能な物はイイですが、スポーツ
の一瞬とか、その時でないと撮れない物だってあるでしょうに。

今みたいにブログやYouTubeがあれば誰でも自由に作品を発表
出来ますが、当時はドコかに所属して写真展に出すか、カメラ
雑誌のコンテスト応募するしか発表の場が無かったので。


そんな感じで作品を創っていくワケですが、展示スペースは毎年
概ね決まってるから、人数が少ない1人当たりの「ノルマ」
増える事になり、ソコで「人手不足だと困る」事になるんですよ。

で通った作品は「全紙」と言う通常で最大サイズの印画紙に焼く
んですが、コレが土曜の午後(当時は土曜の午前中講義
あった)から「終わるまで」と言う長丁場の共同作業になります。

作品展近くなるほど扱う枚数が増えるから、最大で翌朝8時
頃までやってた覚えがありますが、暗室に入る人数は限られる
ので、残りパネル作りの木工作業をやるんですよ。

「全紙」当時のカメラのファインダーの画角と縦横比が違うから、
市販の物は使わないのがお約束でした。

取引のある材木屋さんから配達して貰うベニヤ板と角材で延々と
ノコギリと金槌を使って作業してるから、写真部なんだか工作部
だか分からん状況になります。

…でまたソレにも無駄な精度を求められるのが難儀な話でしたね。
しかしコレは今、鉄道模型のベースパネルを作る技術に役立って
います。何事も経験しておく事は大事だと思いますよ。


3回生になると私は、「代行」ではない正式な「主将」となります。
…しかし先述の通り給料が上がるワケでもナイし、何か特権的な
振舞い出来るもんでもナイ学生の部活とは理不尽な物です。

後輩ソコソコの人数が確保出来たし、僅かながら女の子
入ったので、私が1回生の時よりは充実した陣容になりました。

作業以外は、上下関係なく馬鹿話もするし一緒に夕食に行くし、
楽しい雰囲気ではありました。…私が日常的に車を出せるから、
徒歩ではキツいようなお店にも行けるようになりますし。

食事は概ね「1回生はタダ」と言う事で、コレは学年順の「持ちつ
持たれつ」です。…後輩が増える負担も増えるけど。

また「一緒に活動した事のナイOB嫌い」と言う事で、後輩には
同じ思いをさせないように下級生との関りは最低限に留めて、
彼等に「行っても面白くない」と思わせる空気にしてやりました。

…今回も書きたい事が全部書けてナイ、些かの消化不良ではあり
ますが、コレまた次回(翌年相当)の記事に続ける事にしましょう。


→次回に続く



※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。

No.1470 ○○について考える

クラ駅長50年史 ㉒-1

2023/04/08(Sat)

では土曜日になりましたので、「クラ駅長50年史」の記事を挟む事
に致しますクラ駅長です。今回は1994年平成6年ですね。

まず今回もWikipediaから、当時の日本世相鉄道関係の出来事
などを拾ってみる所から始めましょう。


前年に成立した日本新党などの細川内閣退陣し、社会党委員長
村山富市氏首相に就任したのが同年の事だったようです。

…当時の特集番組で「生家歴代の首相一番のボロ家」と紹介
されてたのを覚えてますが、ソレだけ庶民派な人だったと言う事
でしょうか?てか大きなお世話だと思うけど。

松本サリン事件ビートたけし氏交通事故も同年の事ですね。
オウム真理教による地下鉄サリン事件後年の事なので、
同時点では「全く不可解な出来事」とされてましたが。

たけし師匠顔面に大怪我を負い、金属の棒固定しての治療に
なったようで、復帰してからソノ棒を抜く時の事を「おでんの気持ち
がよく分かった」とコメントしてたのを覚えています。

ソニーからゲーム機の「プレイステーション」が発売されたのも同年
の事のようです。…当時の私は全く興味がなく購入したのは後に
就職して「電車でGo!」市販ソフトが出てからになるんですが。


同年の鉄道に関して見てみると、まず比較的近い和歌山県野上
電鉄が同年に廃止されています。新規開業岡山県の上郡鳥取
県の智頭を結ぶ智頭急行線などでしょうか?

またJR東海383系「ワイドビューしなの」が同年からデビュー
しています。

関西空港の開業に合わせてJR西日本では281系特急「はるか」
JR九州では「ソニックにちりん」885系など、現在も残る各社の
個性的な車両が出始めた時代だったようですね。

…尤も私は2年前車の免許を取ったから、自由度の高いそっち
方が楽しくなっており、一時的に鉄道趣味から遠ざかってた時期
だったんですよ。だからソレほど興味はありませんでした。


そんな感じで4月から、学年は大学の3回生になります。
今回は主に、学校で何をやってたのか?思い出してみましょう。

勉強の方は段々と専門分野(日本史の近代)に関する内容の事
が多くなり、3回生と4回生特殊講義…いわゆる「ゼミ」と言う
括りで集まる事が多くなります。

私が選択したのは日本近代史…要するに概ね江戸時代に関する
研究を行う所です。…コレは中学生の頃に入ってた部活の郷土
研究部で、田舎の民間信仰などに興味を持った事の延長でした。

教授鎌田先生と言う人で、歴史学者としては些か変わった見解
を持ってる人だったんですよ。

…基本的に歴史の研究と言うのは、過去の文献遺跡から出た
遺物を元に当時の事を推測していく学問だから、理系分野のよう
「実験」は行えないとされてるんですが、敢えてソレをやって
みたらどうなんだ?と言う主義の人なのですよ。

学園祭の展示では、当時の大和国で盛んだった綿花を栽培して
ソレで人形を作るとか、江戸時代の玩具復元して実際に遊んで
みるとか、文献より「実物」が出てくるのがイイですね


そんな中で「江戸時代の旅再現してみる」と言う行事がありました。
…当時流行していた「お伊勢参り」のスタイルで奈良から伊勢神宮
まで、実際の街道徒歩で歩くんですよ。

そうする事で、例えば草鞋の強度…「何kmぐらい歩ける物か?」が
分かったり、伊能忠敬みたいに峠道の距離と高度を測ったり…
色んな「実験」が出来ると言う事なのだそうです。

奈良から伊勢概ね140km電車なら約3時間で着く距離です。

当時は少ないながらも沿道で営業してる民宿があり、ソコに泊まり
つつ朝から夕方まで歩くと、3泊4日掛かって4日目の夕方
現地に着く感じになります。

過去に何度か駅ノートで訪れた、名松線伊勢奥津はコノ途中
あり、2日目の昼食休憩ココなのですよ。…で5日目伊勢神宮
外宮と内宮に参拝し、帰りは当日中に電車でした。

…歩くのは当時の農閑期と思われる3月上旬頃です。体力的には
キツいですが、なかなかに貴重な体験でした。また「実験」も必要
に応じて思い付いた事が出来るのが面白いんです。

例えば陸上部長距離走をやってる同級生が居たりすると「俺は
歩いてるより走ってる方が楽だから」と言う事で、特定の区間
歩けば〇時間な所を走れば〇分」と、飛脚の速さが計れるとか、
そんな事もやってたように思います。

…また昔の「お伊勢参り」と言うのは男衆には「大っぴらに女遊び
出来る旅」でもあったので、「着いたら風俗店に行けますか?」
と提案したら先輩却下されましたが。

とは言え私が実際に歩いたのは2回生一度だけで、3回生
4回生は車(レンタカーの箱バン)に乗って荷物運び弁当の手配
などを行う、裏方「サポートカー」をやりました。

…コレに関しては長くなるので、翌年の記事で書く事にしましょう。

続けて勉強より重要視していた部活写真部に関する事ですが、
長くなってきたネタ不足の折なので、明日に回します。

考える事でボケ防止になると思うから、なるべく続けて行きたい
ではありますが、あくまで「自分史」なので、読む人飽きないように
工夫するのは結構大変ですね。

→次回に続く



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No.1469 ○○について考える