新・駅長日誌Ⅱ

観光列車、駅ノート、鉄道保存施設、
廃線跡と猫ヨシヨシ。…稀に木村。
毎日更新します。

永原⑤ おまけネタ

2023/05/30(Tue)

…と言う事で滋賀県駅ノート5巡目ですが、湖西線永原
関する「おまけネタ」を紹介して、今回の一連の記事の最後に致し
ますクラ駅長です。

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当日の午前中に行った近江塩津同じパターンですが、一旦駅に
着いたものの、周辺でネタを拾う事にして約1.5km離れた大浦
言う漁港にやって来ました。

琵琶湖は周知の通り淡水湖ですが、日本一の広さを誇るだけに
湖岸には何kmか置き漁港が存在します。…マスフナシジミ
などが獲れるそうな。

ココで遊覧船のような観光目的の船は聞いた事がナイんですが、
小さな屋形船も繫留されていました。「花見船」と書いてあります。

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その近くに「北淡海 丸子船の館」と言う資料館があるので、今回
はココを見学してネタが拾えないか探す事にしたんです。

簡単には先述しましたが、丸子船と言うのは主に江戸時代琵琶湖
内の各港を回って物資を運ぶために存在した木製の和船の事です。

湖北地域日本海側敦賀に近いから、敦賀に着いた物資を塩津
辺りまで陸送して丸小船大津や長浜方面まで運ぶと言う方法を
取る事が出来るため、鉄道が開通する以前は最盛期で1,300隻
以上丸子船が活躍していたそうです。

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ココには実在する丸子船の実物が、そのまま展示されています。
左側のカットを参考に駅ノートの絵を描きました。

大きな丸太2つに割った物を合わせて船体を作り、両側の舷側
「オモギ」と言うウエイトを取り付ける事で、船を安定させる構造
なのだそうです。

基本的には帆船ですが、昭和40年代頃に残ってた末期の物には
焼玉エンジンを取り付けた物もあったそうな。また短距離なら櫓を
漕いで進む事もあったらしく、後部には大きなソレが見られます。

展示スペースの関係なのか畳んだ状態であり、町の各所の
モニュメントで見たような大きな丸印は見る事が出来ませんでした。

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船の備品としての展示物がある中に、木製の滑車なんかがある所に、
貨物船だった事が伺えます。

お約束ジオラマ江戸時代ぐらいの風景なんでしょうか?
長浜鉄道スクエアでも似たようなのを見た覚えがあります。

琵琶湖近辺鉄道初めて開通したのが長浜~敦賀です。東海道
本線が全通するまでは琵琶湖の南岸を縦断する連絡船が存在した
ワケで、鉄道が開通する以前琵琶湖の水運いかに重要だった
のかが分かる資料ですね。

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そしてコレまたお約束の、等身大の人物の人形。…船内の積み荷
などと同様に雰囲気として置いてある物なんでしょうが、殊に左側の
爺さんの禿げ頭の質感がリアルすぎて驚きました

主な積み荷は、京都を基準にして「上り」北陸地方の海産物
特産品など。「下り」漆器和紙などだったようです。

旅客も便乗出来たのか?又は荷主とかそう言う立場の人なのか
不明ですが、無駄に力を入れて再現してしまったようです。

基本的には歴史好きなので、ノート設置駅の近くに史跡や資料館
があると楽しいですね。…5巡目ともなると駅そのもののネタは描き
尽してるので、新たな発見にもなります。

滋賀県は、あと近江鉄道日野が残ってますか。…ココは周囲に
他の設置駅ない地域なので、単発で行くしかナイかな。




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No.1521 駅長が見た風景

駅ノート 永原⑤

2023/05/29(Mon)

では再びココから滋賀県駅ノート5巡目ですが、北陸本線
近江塩津の次は、湖西線永原にやって来ましたクラ駅長です。

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先述の近江塩津隣の駅ではありますが、小高い山を挟むので
少し距離があり、琵琶湖の港としても別の区域になると思われる
所ですね。駅ノートは比較的最近になって存在が確認されたので、
前回までは数合わせ間隔を詰めて回ってました。

現在のログハウス調の駅舎平成12年新築された物だそうです。
平成15年までココと近江塩津の間に交直切替デッドセクション
があり、直通する普通列車少なかったようです。

駅舎には観光案内所が入居しており、それと出札業務JRとは
地元企業が行っている簡易委託駅ですね。

線路築堤上にあるので、改札を入ると広めの地下通路があり、
ホームまでカナリ長い階段で登る構造になっています。
…同駅にもエレベーターなどのバリアフリー設備ありません

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配線としては島式ホーム2面4線構造で、緩急退避が出来る他
京都方面折り返す列車も何本か設定されてるようです。
高台なので琵琶湖の湖面がよく見えますね。

各ホーム敦賀寄りプレハブ構造の待合室があり、駅ノート
下り(敦賀方面行き)待合室内に置かれています。

以前から存在したらしいんですが、下に立派な待合室があれば
そこに置かれてる事が想像されるのは当然であり、発見が遅れた
のでしょう。許可が下りなかったんでしょうか?

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駅ノート大き目A4サイズです。しかし縦幅より狭いケース
に入ってるので、ノート本体が湿気で曲がっており、保管状態
いいとは言えません

冬場は結構な積雪になるし、風向きによっては琵琶湖方向から
湿った空気が来るのでしょう。意外と湿気が多い環境なようです。

前回以降の絵師さんの作品1点。また突発的にリアルな113系
電車を描いた物もありました。

今年の春のダイヤ改正で、京阪神地区113系と117系完全に
引退してしまったんですよね。…殊に113系改造に改造を重ねた
結果、最終的に何番台だかよく分からない代物になってました。

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同駅に来るのも5回目なんですが、私が以前から気になってるのが
駅周辺や少し離れた大浦の集落などで見かける、丸い印の付いた
帆船絵やモニュメントなのですよ。

右は駅近くの公園にある遊具です。船を模したジャングルジム
イイとして、これにも独特のデザインな帆が再現されています。

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…調べてみるとコレは「丸子船」と言う物で、主に江戸時代以前の
鉄道がナイ時代琵琶湖内の各地を往来して物資を運ぶ、重要
輸送手段だったようです。

同駅から近い大浦と言う港丸子船に関する資料館があり、実際
に使われていた本物の丸子船が展示されてると言う事で、コレまた
見に行く事にしました。

いい題材だと思ったんですが、矢鱈と構造が複雑なので描くのに
苦労しましたよ。のろの台詞私の素直な感想です。

では次回は、この丸子船の資料館などを中心とした「おまけネタ」
に移る事にしましょう。

→次回に続く



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No.1520 駅ノートの記録

クラ駅長50年史 ㉙-2

2023/05/28(Sun)

今日は日曜日ですが「クラ駅長50年史」2001年平成13年
項目で書くべき事が多いので、続きの記事を入れる事に致します
クラ駅長です。


まず同年、車を買い替えたんですよ。私にとって3台目になるん
ですがソレまでのワンボックス車日産キャラバンから同じく日産
ローレルに変わりました。

…単純に言えばワンボックス車にも飽きたと言うか、段々と卒業した
学校の写真部に顔を出す機会も減り大人数を乗せる機会も減った
から。と言う感じの動機だったと思います。

当時として4年落ちになる中古車ですが、日産ローレルとしては
最終モデルになるC35系と言う型でした。同車の中でもスポーツ
タイプだとされている「クラブS」と言うグレードです。

中古車なので細かい仕様前の持ち主のセンスなんでしょうが、
前後のバンパーサイドの下回り純正のエアロパーツが付いて
おり、純正のウイングアルミホイールも装備されてました。

…外見としてカナリ厳ついものの、歴代の自家用車の中で最も見た
目がカッコいい車だったと思ってます。

それまでのキャラバンディーゼルエンジン重い車だったのが、
2500ccガソリンエンジン軽快に走るもんで、かなりのカルチャー
ギャップを感じたのを覚えています。

後年の話になりますが、あまりによく走るもんで旅先の淡路鳴門
自動車道制限時速58kmオーバーする速度違反をやらかして
しまい、90日間の免許停止になった事がありましたね。

四国へ行った帰り大鳴門橋を渡って、淡路島に入った所でオービス
に写されたんですよ。制限時速100から80変わる地点の直後
に設置されてるようです。

警察から写真が送られて来たんですが、めっちゃ疲れた顔でした。

場所が淡路島だから神戸の高速道路警察隊へ出向いたり、略式
裁判地元の検察庁へ行ったり、ある意味貴重な経験でしたが。


そして前年辺りから、仕事でパソコンが使えるようになったので
自分でも欲しくなり、大阪の量販店中古の機械を買いに行った
のも同年頃の事です。

…その少し前辺りからインターネット急速に普及していったん
ですよ。で携帯電話もソレが使える「iモード」なる物に対応する
機種になったんですが、やはり小さな画面では不自由です。

しかし当時はネット回線装備されてるアパートは少なかったし、
独り暮らしを始めた時に「固定電話は要らん」として電話回線
持ってなかったから、NTTドコモカード式のモバイルモペラ
だったかな?)を買ってネットに繋ぐようにしたのを覚えています。

で最初は適当なサイトを色々と見てたんですが、ある事で知った
心霊系のコミュニティサイトみたいな所(現在は無くなりました)
で、ネットデビューする事になります。

心霊スポットの情報をやり取りしたり、怪談話のメルマガが送られ
てきたり、そんな所です。…私は元々霊感と言う物は殆どナイ
ですが、エンターテイメントとしての怪談話好きなのです。

当時のコミュニティサイト定番のように掲示板があるんですが、
四六時中怪談話をしてるワケでもなく無関係な雑談も多い。

…そこへ参加する時のハンドルネームとして、上で挙げた車から
取って「クラブS」と名乗ったのが、現在も言われる「クラさん」
と言う呼び名の始まりなのですよ。

その当時は当然、ココまで長く使うとは思ってませんでしたが。

そんな中で顔も本名も知らない「ネット仲間」と言う友達が増え
始め、部活の後輩などの「リアル友人」の数を上回るようになり
ます。今では当たり前の事ですが、当時はまだ珍しい事でした。

当時の文化?として「心霊スポット好き」「走り屋」被ってる
が多く、私もそっち方面の趣味の人間違われた事もありました。
…確かに「夜中に山間部へ行きがち」と言う共通点があります。

概ね当時の自分と歳の近い人たちが多かったので話も合うし、
男女交じってるから恋愛感情も発生します。また場合によって
悪口を言ったの言わないので喧嘩になる事もある。

ネット社会とて、実生活とソレほど変わらない所だと知りました。

当時の人脈の人たちともカナリ疎遠になりましたが、何人かは
Twitterの相互フォローになってるし、先日急に現れた「広爺」
ココの知り合いだった人物です。…このオッサンに関しては長く
なるので、機会を改めて紹介する事にしましょう。


そうやって始まった私のインターネット社会への参加ですが、
仲間の中で器用な者は、段々と個人サイトを作るようになって
それが流行するようになりました。

「ブログ」と言う概念が出てくるのはもぅ少し後の事だし、今の
ようにTwitterのアカウントだけ持って参加出来るような時代では
なかったから、大抵最初は「魔法のiらんど」からでしたね。

今でもあるのかな?登録すると携帯電話向け掲示板や日記帳
などが一通り揃ったアカウントが用意され、それらを組み合わせて
自分の趣味などに関する情報を発信出来る仕組みでした。

私もソノ流れに乗って自分用のサイトを作ったんですが、やはり
鉄道好きだし「個人サイトって鉄道の駅に似てる」と思ったから
「蔵部駅」と言う名前にして、責任者だから「駅長」と名乗りました。

…これが「クラ駅長」の始まりです。

ちなみに「蔵部」と言うのは完全な当て字ですが、世間には幾つか
同名の居酒屋さんなどがあるようですね。

現在ではブログとTwitterがメインになってしまい「蔵部駅」全体
認識される事は少ないんですが、トップページで使ってる切符の
バナーにある「13.10.16」と言うのが、サイトを立ち上げた日付け
なのですよ。…JRの乗車券和暦の表記なので平成13年です。


そして同年の12月頃から、当時あった「Cgi boy」と言う楽天系の
ネットサービスの日記帳を借り、画像つき「駅長日誌」と言う物
を始めたのが、現在のブログの始まりです。

2007年に現在の「忍者ブログ」に移行した時から「新・駅長日誌」
となりました。現在の物はデータ容量の関係で移転した「Ⅱ」です。

「Cgi boy」2010年頃サービスを終了したので当時のデータ
残ってませんが、以来20年以上毎日欠かさずに日記を書いて
ネット上に挙げてるワケで、コレは自慢してイイんじゃナイのかなと。


…詳しく説明するとココまで長くなるので今まで放置してありました
が、こんな感じで「クラ駅長」と言うキャラクターが出来上がった
と言うお話でした。

今では当時の事知らずに何となく「クラさん」と呼んで下さってる
方の方が多い筈ですが、この記事で知って頂ければ幸いです。

→次回に続く



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No.1519 ○○について考える