新・駅長日誌Ⅱ

観光列車、駅ノート、鉄道保存施設、
廃線跡と猫ヨシヨシ。…稀に木村。
毎日更新します。

駅ノート 紀伊長島④

2022/12/19(Mon)

今回も土日を挟んで2日の間が空きましたが、紀勢本線駅ノート
4巡目に戻りますクラ駅長です。…最後紀伊長島ですね。

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前日熊野市尾鷲と描いて1泊し、翌朝ココまで移動してきました。
ホテル等の紹介は次回、尾鷲と併せての「おまけネタ」に譲りますが
2日目イイお天気ですね。

紀伊長島も現地では一応の主要駅でしょう。古いながらも立派な
駅舎を有する有人駅です。駅前にはパーク&ライド用と思われる無料
の駐車場がありますので、今回も車はココに入れました。

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駅舎の前には「行幸址」と言う石碑が建っています。記述によると
昭和26年昭和天皇鳥羽から尾鷲へ向かう際、ココで途中下車
して住民の歓迎を受けた。」と言う旨の事が書いてありますな。

…恐らくはお召列車での話なんでしょうが、何の用事もなく単に
途中下車したんでしょうか。警備の手間とて増えるだろうに、まだ
ノンビリした時代だったと言う事か?

その脇には駅員さん地元の方が育てたと思われるが咲いて
ました。「ニチニチソウ」と言う物のようですが、可愛い花ですね。

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同駅有人駅ですが窓口の営業時間限られており、9時40分
にならないと開きません。…もぅ1段上右の画像開店前の状況
ですが、発車案内のモニター消されてるんですよ。

駅ノートもソレと同時に出される18時45分終了とともに回収する
ので早く行っても仕方がなく、私としてはゆっくり目に到着しました。

ココでも入場券を買って構内に入りました。1番線に入ってるのは
多気方面行きの普通列車です。…しかし同駅には自動券売機
ないので、窓口閉まってる場合はドコで買えばイイんでしょう?

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駅ノート3冊目の物が稼働していました。…前回以降の絵師さん
の作品ゆっくまーシール確認出来ませんでしたが、私の絵
関して例の独特な字吉澤さんからコメントを頂いておりました。

このエリア3駅全てに書かれてますから、統括的な仕事をしてる
方かも知れません。…以前にも書きましたが、この人学生時代
の試験の答案ラブレターこの字なのでしょうか?

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では今回のネタですが、以前から気になってる「特急南紀」宣伝
看板を描いておきましょう。…カナリ以前から掲出されてるようで、
現状と違ってしまった部分が白く消されています。

まず「東京が近くなる」の下には「東京での滞在 最大6時間32分」
と書かれてるんですが、コレはダイヤが変われば微妙に変化する
ものでしょう。調べてみると現行のダイヤでは6時間36分です。

…しかしこの程度の事は最初から予測が付きそうな話であり、私が
デザイン担当者なら「約6時間30分」とかにしておく所です。

そして「南紀」の周囲にあるのが「ワイドビュー」と言う装飾文字
なのですが、周知の通りJR東海では2022年春ダイヤ改正から、
在来線の特急列車に冠していた「ワイドビュー」の名称を全て廃止
してしまいました。…コレは誰も予想しなかった事かも知れません。

そんな感じで色々と無理が生じてるワケですが、私の予想としては
のろの台詞に入れた通りです。「南紀」新型HC85系が入ったら
デザインを丸ごと変えるんじゃナイのかなと。

…また確認に行く機会はあると思うので、楽しみにしておきましょう。

では次回、画像枚数の都合2回分マトメてですが、尾鷲と紀伊
長島に関する「おまけネタ」今回の報告終える事にします。

→次回に続く



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No.1359 駅ノートの記録

★冷暖房と水回りの思い出

2022/12/18(Sun)

毎週土曜日「クラ駅長50年史」の連載を続けてるワケですが、
段々と書き足りない事が出てきましたので、今回は当時の実家
冷暖房と水回りについて書いてみたいと思いますクラ駅長です。

一般の「考える」シリーズ区別するため、50年史関係の記事は
タイトルの頭に「★」を付ける事にしましょうか。

「②」の回で少し書いたんですが、私が誕生時から19歳ぐらいまで
住んでた実家は、明治時代に建てられたと思しき古い屋敷でした。

恐らく建設時電気水道給湯設備なども皆無であり、まず電気
照明器具や日常生活用のコンセントに至るまで、全てが後付けの
配線柱や梁などにコードが這ってる構造でした。

安全装置は今どきのブレーカーではなく「ヒューズ」と言う物です。
自動車用の電装部品などには今でも使われていますが、アレの
大きい物だと思えばよろしい。…100Vだからな。

切れる交換が必要になるから、買い置き切らさないように
注意する必要があり、ソレが配電盤ネジで留めてあるので、
暗い中を懐中電灯照らして取り換える作業を要してました。

田舎大きな家で、壁で仕切られた部屋と言うのも少ないから、
エアコンの類一切ありません夏場を開けてるか、扇風機
を使う程度が関の山でしょう。

…そう言えば小学校で配られた「夏休みの心得」などのプリントには
課題朝の涼しいうちに済ませよう」みたいな事が書いてありました。

地域的そんな家も多かったのか、又は「クーラーは体に悪い」
言う発想で、当時はまだ未導入な家庭があったのかも知れません。

冬場暖房は最も多用されてたのが練炭火鉢でしょう。一応は石油
ストーブ電気こたつもありましたが、居間の主力は練炭です。

練炭って最近は自殺アイテムとしてしか聞かなくなりましたが、
要するに着火したソレ専用のコンロに入れ、更に大きな陶器製の
容器に入れる事で、程よく暖が取れる仕組みになっています。

陶器の縁に手を置くと暖かいし、コンロ部分ヤカンを置いておけば
給茶用のお湯も使える。網で餅を焼いたりするのも可能です。
に点けると概ね翌朝までが残ってました。

…しかし自殺に使えるぐらいだから、最初はカナリ有毒なガスが出る
らしいんですよ。だから序盤の1時間ぐらいは障子を開け放って換気
する必要があり、暖房として使えるのはソレ以後になります。

そんな感じで夏は暑く冬は寒い家に住んでたワケですが、先述した
ように権利関係が複雑で、ウチの家族「そのうち出て行く」と言う
事が決まっており、親は設備投資ケチってた節があります。

自室にエアコンが付いたのは今の家に引っ越した19歳の時であり、
年で言うと1991年平成3年の事になります。遅いでしょ。

…話は少し逸れますがソノ時に建てた今の実家も、30年前にしては
古めかしい「田の字」の構造をしています。

それでも当時なら電気テレビアンテナの線ぐらい、壁の中に隠す
技術ぐらい幾らでもあったのに、矢鱈と後付けの配線が多いですね。

が最初は嫌がってたクセに、後から「やっぱりエアコンが欲しい」
とか言うからなんですが、やはり現代家屋の内装として不細工です。

話を昔の実家に戻しますが、次に水回りですね。

最初は当然に井戸だった(実際に敷地内に残ってた)のが普通の
上水道になり、流石に私もソレしか知らないんですが、取り敢えず
困ったのがトイレですよ。…平成に入っても汲み取り式ですから。

普段はイイとして、問題なのは学校などに提出する検便です。
コレはホントに、庭に新聞紙を敷いてやらされてました。

幸いな事に外からは見ないエリアが幾つもありましたが、地味に
屈辱的です。男児だからイイけどならグレるかも知れません。

便所汲み取り式だから当然に時々中身を捨てる必要があり、
私が幼児の頃は家の前に肥溜めが存在しました。

…だから私が落ちたワケですが、コレは後にバキュームカーの
業者さんに処理を依頼するようになります。

そして水回りとセットになってるのが給湯設備ですね。

コレは流石に灯油で湯を沸かすボイラーがあったんですが、古い
なので風呂そのものの構造は「五右衛門風呂」に近い物であり、
釜の焚口が存在しました。

ボイラー設備のある洗濯場風呂は目測で10m程度離れており、
スイッチを点けても温かいお湯が出るまでのタイムラグが長く
無駄に時間が掛かってました(水管は恐らく地中にある)。

古い家だからそんな置き方しか出来なかったようです。
そしてボイラーポンコツだったのか、よく止まるんですよ。

そんな時は水だけ溜めて下から火で焚く、最も原始的な方法に
なります。…風呂はソレでいいとしても、顔を洗うお湯などは
沸かせず、冬場は寒さに耐えつつ水で洗うしかなかったですね。

風呂の焚口付近の一角は紙やビニールなどのゴミ捨て場と化して
おり、それを燃料にします。それはソレで無駄がなくてイイのかも。

風呂を直火で焚く底が熱くて入れませんので「下水板…げすいた」
なる木製の板があり、それを風呂の底に噛まします。…木製だから
そのままでは浮いてくるので、別の部品で留めるんですよ。

この状況は流石に嫌だったのか、私が10歳ぐらいの時に当時の
金額で60万円ほど掛けてソーラーシステムを併用する新しいボイラー
を導入しました。

…勿論「置いて行くのは勿体無い」新しい実家に移設しましたが、
今はもぅ残っていません今時の灯油ボイラーに比べるとカナリ
大きくて複雑な構造だったように思います。

こうして書き出してみると、今とはまるで違う時代に生きてたような
気すらして来ました。現代文明と言うのはホントに有り難い物ですね。

→次回に続く



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No.1358 ○○について考える

クラ駅長50年史 ⑥

2022/12/17(Sat)

では土曜日ですので、ココで「クラ駅長50年史」の記事を挟む事に
致しますクラ駅長です。今回は1978年昭和53年ですね。

Wikipediaから同年の出来事を拾ってみると、日産「パルサー」
トヨタ「ターセル」「コルサ」発売を開始した事が載ってました。

自家用車縁のなかった当時の私は全く知らなかったんですが、
トヨタの2車種同社初のFF(前輪駆動)車だったようです。

…この辺りから乗用車FFが主流になって行ったんでしょうね。
私は今でも「車全体で走ってる」と言う気がするFR(後輪駆動)
方が好きなのですが。

同年の年末に俳優田宮二郎氏が、自宅で猟銃を使って自殺する
と言う事件がありました。

当時6歳の私はこんな人物は知らなかったワケで、新聞記事
見出しを見て「たみやにろう」と読んで大笑いされたんですよ。

だったら他の漢字を読めた点褒めて欲しい所です。
幼稚園児ですから。しかも「に」だって単品では当たってるじゃん。

同年の鉄道に関しては、先述したように京都市電全廃された年
なのと国鉄では10月に、後に「ゴオ・サン・トオ」と呼ばれる大規模
白紙ダイヤ改正が行われています。

この改正から在来線優等列車でも「下り奇数りが偶数
と言う号数の振り方変更されました(新幹線当初から)。
…ちなみに狩人のヒット曲「あずさ2号」前年の発表です。

そして特急料金増収を狙ったのか、「特急増発」と言いつつ
ほぼ同数急行削減して特急に格上げし、所要時間停車駅
急行並み「名ばかり特急」大量に誕生しました。

赤字続きなのに(今から考えると)カナリ無駄の多い経営だった
当時の国鉄としてもソレなりに頭を使った結果なのでしょう。

特急と言えば主に電車寝台客車を使う物から順に、絵入り
ヘッドマーク(又はテールマーク)が普及していったのも、同年の
改正辺りからだとされています。

所沢秀樹氏は著書の中で「未来の利用者となり得る子供たちを、
今のうちから手懐けておく作戦だろう。」と書いてましたが、まさに
私らがソレに相当する世代です。


同年の4月から私は幼稚園の年長組になります。…今でもある
のかですが、幼稚園~小学校辺りでは朝礼などで整列する時、
出席番号より「背の順番」と言うのが多様されていました。

体が小さかった私は大抵前の方でしたね。当時で1クラスが45人
程度であり、男女半々とすれば20人強になりますが、最高でも
7番目程度だったように思います。

体育の授業などでは体格の近い者同士を組ませる方が都合が
良いのでしょうが、意外とコンプレックスを感じるんですよ。

ともあれ幼稚園ではソレなりに友達も出来て、流行のテレビ番組
などの情報交換をするようになってました。

…しかし当時の私夜7時には寝かされており、それより遅い
番組は殆ど見せて貰えなかったように思います。

ある時、先生が水槽に入れた何匹かのザリガニを持ってきた事が
ありました。意図としては「水辺の生き物に触れてみよう」みたいな
話だったんでしょうか?

いきなり掴んでハサミで挟まれてイカンと言う事か、割り箸
配られたんですよ。…昭和50年代にしては意外と親切です。

しかし数が少なかったのか私には行き渡らず。でも普段から近所
の川などで遊んでた私は、素手でザリガニを掴む程度の事は平気
だったので、特に必要ありませんでした。

私生活ではプラレールの連結器壊れたのを針金で修理(代用)
して使ってたら、何故か「頭のいい子だ」褒められました。
…別にソレほどのアイディアだと言う意識も無かったんですが。

アレはプラスチック製の物が雌雄になってるワケですが、丁寧に
扱ってても経年劣化で割れるものです。

後に自分が親になって、改めて長男プラレールで遊ぶように
なった時「連結器の部品だけ」と言うのも売られてる事を知ったん
ですが、当時そんな売り方してなかったんでしょうか?

…売っててもあの親では、そんな気の利いた発想出ないでしょう。


そして何度か書いてる話ですが、長期の休みになるとに連れ
られて千葉(船橋市)叔父の家によく遊びに行ってたのを覚えて
います。…その頻度が最も高かったのがこの頃だったんでしょう。

東京駅まで新幹線で行って、何故か(恐らく知識が無かった
総武線地下ホームへ降りる前に、一旦丸の内側の改札を出て
切符を買い直す時に、手土産のケーキ盗まれた事がありました。

…ホントに1分程度の間でしょう。は「東京って怖い所だねー」
と言う印象になったようです。

同時期に母方の祖母(母と叔父の母)が亡くなっており、葬儀
時に一度だけ父も一緒に行った事があります。

そのうちで1度、夕食を外で食べる事になって外出したんですが、
帰りに迷子になってしまいました(叔父一家自家用車と言う
物を持ってなかった)。

当然の事に残された一行パニックになり、は私の手を繋いでた
従姉に珍しくキツい叱り方をしたらしいです。

しかし私は自力叔父の家まで先に帰り、たまたま開いてた縁側
の戸から家に入って助かったんですよ。…Googleマップで見ると
夕食のお店(と思われる地点)から約1kmの距離です。

「死んだお祖母ちゃんが導いてくれたんだ」と言われましたが、
私は当時でもソノ程度の方向感覚と土地勘ぐらい持ち合わせて
おり、逆に方向音痴っぷり危惧してたぐらいでした。

そう言えば一度、現地私と母親だけ自転車を借りて出掛けた
事がありましたね。

春頃だったのか「つくしを採りに行こう」と言う事で母&私のチーム
叔母&従姉のチームに分かれたんですが、当時は船橋市辺り
でも、結構な広さの空き地が随所にあったようです。

携帯電話ない時代、あの親適当に自転車で走り回ってよく
無事に帰れたものだと思います。それこそ「お祖母ちゃんの加護」
だったのかも知れません。


話を奈良県に戻しますが、この頃から原付バイクに乗るように
なりました。ヤマハから「パッソル」「パッソーラ」が発売されたのが、
奇しくも同年の事です。

上記2車種は「女性スカートでも乗れるバイク」と言う事で、CM
キャラクターを同世代八千草薫さんが務めており、その販売
戦略
に見事に引っ掛かって「パッソーラ」を買いました。

「パッソーラ」「パッソル」上級グレードで、確かに一回り大きい
印象です。…原付だからエンジンは同じ50ccなものの、最高出力
大きく2速オートマチック車なのだそうです。

…元々車の免許は持ってるから、バイク屋さんから借りたカセット
テープつきのテキスト乗り方の勉強をしてました。

横で聞いてた私は何故か 「マフラーと言っても寒い時に首に巻く
ではありません。」と言う間抜けな解説を1つだけ覚えています
…「そのレベルから教えにゃならん」と言う時代だったんでしょう。

当時はヘルメットの着用義務なく2人乗りに関してもユルかった
から私もよく一緒に乗せられてました。…この辺りへ行くと長くなる
ので、機会を改める事にしましょう。

次回はいよいよ小学校入学ですね。…適当にお楽しみに

→次回に続く



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No.1357 ○○について考える