クラ駅長50年史 ③
2022/11/26(Sat)
…土曜日恒例の「クラ駅長50年史」の時間がやって参りました。
今回は1975年…昭和50年について思い出してみますクラ駅長です。
同年で鉄道関係の話と言えば、山陽新幹線が博多まで開通した
一方で、北海道を最後に蒸気機関車の定期運用が終了したと言う、
対象的な2つの出来事が載ってました。
後に再放送で見たんでしょうが、特撮物の「ウルトラマンA」の中で
隊員の1人が新幹線で岡山へ出張するシーンがあったんですよ。
彼は車内で隣に座ったヒッピー風の男(蟹江敬三氏らしい)と「何処
まで行くの?」「岡山までです。」「ふーん、じゃあ終点までだね。」
みたいな会話をしてました。
…この回の放送が1972年の7月だそうで、細かい事ですが「この時は
岡山止まりだったんだな。」と思ったのを覚えています。
3歳ぐらいになると色んな記憶が残ってるもんですが、何度か述べてる
ように「その順番が曖昧」なのですよ。幼稚園や学校に入れば学年を
基準に並べる事が出来るんですが。
ともあれ多少の前後はあっても裏が取れるような話ではナイし、誰にも
迷惑は掛からないと思いますので、思いつくまま挙げてみましょう。
幼児だから基本的には家に居て、母親も専業主婦だったから大抵は
一緒に過ごしてました。
…この当時で母は42歳の筈ですが「35歳」とウソついてましたな。
我が子を相手に歳を鯖読んで何のメリットがあるのか不明ですが。
祖父母は70歳を過ぎてましたがまだ存命であり、母の不在時は時々
面倒を見てくれてたようです。…ただコノ夫婦は子育てを経験してナイ
&世代が違いすぎるので、何となく「ぎこちないなぁ」と感じてました。
まず覚えてるのは肥溜めに落ちた事。…実家の便所は汲み取り式
だから、家の裏手に肥溜めがあったんですよ。父が桶を天秤棒で
前後に担いで中身を運んでたのを覚えています。
漫画などでよく見る囲いや蓋の付いた物ではなく、単に穴を掘った
だけだから、草の多い季節には場所を把握してないと危険です。
恐らくは何も考えずに走り回ってて突撃してしまったんでしょう。
近くに居た祖父が助けてくれたようで、すぐに風呂場で洗われました。
…てか実家の渡り廊下には欄干に相当する物が無かった(鉄道の
ガーター鉄橋みたいな形状)し、家の真ん前が用水路だしで、よく
色んな所から落ちてましたな。
渡り廊下から落ちると地面はコンクリートのタタキだし至近距離に
庭石もあるので、下手すると死んでたと思われます。
…ベビーサークルや安全ドアの類は存在しない時代でした。
そして当時は実家の近所から桜井市の三輪明神を経て桜井駅まで
行くバスが走っており、祖父母に連れられて時々お参りに行ってた
のを覚えています。
このルートの一部は戦時中まで「大和鉄道」と言う軽便鉄道だった
ワケですが、不要不急路線として廃止されてしまい、西田原本~
新王寺が近鉄田原本線として残っています。以前に紹介しましたね。
往路はバスで三輪明神へ行くんですが、帰路は適当な便が無かった
のか、桜井線で桜井へ出て近鉄で帰ってました。…当時の桜井線は
非電化で、キハ35系などが走ってたのを覚えています。
三輪明神と言うのは参道口から拝殿まで結構な距離があり、3歳
の幼児にしてみると70代の老夫婦の動きがかったるくて仕方ナイ。
早く先に行きたいから手を放してしまい、一時的に迷子になりました。
…参道口近くの売店で保護されたようで、店の人にアイスクリームを
貰って呑気に食ってる所を祖父母が見つけてくれました。この時に
「カップアイスは木の匙で食べる物」と最初に認識した覚えがあります。
あと父親にもよく連れ回された記憶があるかな。…父は当時は主に
中学校の教員だったんですが何故か転勤が多く、何れも自宅から
通える範囲ではあるものの、複数の学校を転々としてました。
でソレに伴う挨拶回りだったのかも知れず、コレまた父が目を離した
隙にと言う事か、普通に平日で授業中の学校内をトコトコ歩いてた
覚えがあります。
また前後関係は不明なんですが、夕方に30畳ぐらいの大きな部屋で
大人数のオッサンが車座になって宴会をしてる所へ連れて行かれた
記憶があります。…感覚的には隣村ぐらいの距離、部屋は公民館か?
狭い地域に限られるものの何だカンだと交際範囲の広い人で、やはり
歳を取って出来た息子だから、知人とかに見せたかったのでしょう。
ちなみに父は生涯、運転免許の類を持った事がナイ人でした。
だから近場の移動は全て自転車か、親戚や知人の車に乗せて貰う
しか手段はなく、(私にとって)知らない人の車にもよく乗ってました。
コレまた前後関係を覚えてナイんですが、誰かの車に父と一緒に
乗せて貰い、街中のドコかで降ろして貰ったんですよ。
で私が後部座席のドアを閉めようとしたら、父が「あ、この人が乗る
から。」とソレを制し、代わりに別の男性が乗って走って行きました。
…しかしコレが、断じてタクシーではナイんですよ。当時の年式の
白いカローラだったと思うんですが、当時はそんな車種のタクシーは
存在しないし、幼児でもソノぐらいの見分けは付きます。
あの車と運転手は何者だったのか?今でも謎のままですね。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
今回は1975年…昭和50年について思い出してみますクラ駅長です。
同年で鉄道関係の話と言えば、山陽新幹線が博多まで開通した
一方で、北海道を最後に蒸気機関車の定期運用が終了したと言う、
対象的な2つの出来事が載ってました。
後に再放送で見たんでしょうが、特撮物の「ウルトラマンA」の中で
隊員の1人が新幹線で岡山へ出張するシーンがあったんですよ。
彼は車内で隣に座ったヒッピー風の男(蟹江敬三氏らしい)と「何処
まで行くの?」「岡山までです。」「ふーん、じゃあ終点までだね。」
みたいな会話をしてました。
…この回の放送が1972年の7月だそうで、細かい事ですが「この時は
岡山止まりだったんだな。」と思ったのを覚えています。
3歳ぐらいになると色んな記憶が残ってるもんですが、何度か述べてる
ように「その順番が曖昧」なのですよ。幼稚園や学校に入れば学年を
基準に並べる事が出来るんですが。
ともあれ多少の前後はあっても裏が取れるような話ではナイし、誰にも
迷惑は掛からないと思いますので、思いつくまま挙げてみましょう。
幼児だから基本的には家に居て、母親も専業主婦だったから大抵は
一緒に過ごしてました。
…この当時で母は42歳の筈ですが「35歳」とウソついてましたな。
我が子を相手に歳を鯖読んで何のメリットがあるのか不明ですが。
祖父母は70歳を過ぎてましたがまだ存命であり、母の不在時は時々
面倒を見てくれてたようです。…ただコノ夫婦は子育てを経験してナイ
&世代が違いすぎるので、何となく「ぎこちないなぁ」と感じてました。
まず覚えてるのは肥溜めに落ちた事。…実家の便所は汲み取り式
だから、家の裏手に肥溜めがあったんですよ。父が桶を天秤棒で
前後に担いで中身を運んでたのを覚えています。
漫画などでよく見る囲いや蓋の付いた物ではなく、単に穴を掘った
だけだから、草の多い季節には場所を把握してないと危険です。
恐らくは何も考えずに走り回ってて突撃してしまったんでしょう。
近くに居た祖父が助けてくれたようで、すぐに風呂場で洗われました。
…てか実家の渡り廊下には欄干に相当する物が無かった(鉄道の
ガーター鉄橋みたいな形状)し、家の真ん前が用水路だしで、よく
色んな所から落ちてましたな。
渡り廊下から落ちると地面はコンクリートのタタキだし至近距離に
庭石もあるので、下手すると死んでたと思われます。
…ベビーサークルや安全ドアの類は存在しない時代でした。
そして当時は実家の近所から桜井市の三輪明神を経て桜井駅まで
行くバスが走っており、祖父母に連れられて時々お参りに行ってた
のを覚えています。
このルートの一部は戦時中まで「大和鉄道」と言う軽便鉄道だった
ワケですが、不要不急路線として廃止されてしまい、西田原本~
新王寺が近鉄田原本線として残っています。以前に紹介しましたね。
往路はバスで三輪明神へ行くんですが、帰路は適当な便が無かった
のか、桜井線で桜井へ出て近鉄で帰ってました。…当時の桜井線は
非電化で、キハ35系などが走ってたのを覚えています。
三輪明神と言うのは参道口から拝殿まで結構な距離があり、3歳
の幼児にしてみると70代の老夫婦の動きがかったるくて仕方ナイ。
早く先に行きたいから手を放してしまい、一時的に迷子になりました。
…参道口近くの売店で保護されたようで、店の人にアイスクリームを
貰って呑気に食ってる所を祖父母が見つけてくれました。この時に
「カップアイスは木の匙で食べる物」と最初に認識した覚えがあります。
あと父親にもよく連れ回された記憶があるかな。…父は当時は主に
中学校の教員だったんですが何故か転勤が多く、何れも自宅から
通える範囲ではあるものの、複数の学校を転々としてました。
でソレに伴う挨拶回りだったのかも知れず、コレまた父が目を離した
隙にと言う事か、普通に平日で授業中の学校内をトコトコ歩いてた
覚えがあります。
また前後関係は不明なんですが、夕方に30畳ぐらいの大きな部屋で
大人数のオッサンが車座になって宴会をしてる所へ連れて行かれた
記憶があります。…感覚的には隣村ぐらいの距離、部屋は公民館か?
狭い地域に限られるものの何だカンだと交際範囲の広い人で、やはり
歳を取って出来た息子だから、知人とかに見せたかったのでしょう。
ちなみに父は生涯、運転免許の類を持った事がナイ人でした。
だから近場の移動は全て自転車か、親戚や知人の車に乗せて貰う
しか手段はなく、(私にとって)知らない人の車にもよく乗ってました。
コレまた前後関係を覚えてナイんですが、誰かの車に父と一緒に
乗せて貰い、街中のドコかで降ろして貰ったんですよ。
で私が後部座席のドアを閉めようとしたら、父が「あ、この人が乗る
から。」とソレを制し、代わりに別の男性が乗って走って行きました。
…しかしコレが、断じてタクシーではナイんですよ。当時の年式の
白いカローラだったと思うんですが、当時はそんな車種のタクシーは
存在しないし、幼児でもソノぐらいの見分けは付きます。
あの車と運転手は何者だったのか?今でも謎のままですね。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
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