クラ駅長50年史 ①
2022/11/12(Sat)
…そんな感じで先週の土曜日から始まった「クラ駅長50年史」ですが
2回目の今日は1973年…昭和48年で私が1歳の頃について書いて
みたいと思いますクラ駅長です。
話数と年齢を合わせる事にしたので初回(前回)が⓪、今回が①です。
とは言え1歳ではまだ確たる記憶はありませんので、今回も自分の
家族やソノ周辺に関しての内容になると思われますが。
まず鉄道に関して言えば同年は、国鉄の順法闘争にキレた利用者が
「上尾事件」や「首都圏国電暴動」などを起こした年です。新規デビュー
は381系特急電車や24系(24型)ブルートレイン等でしょう。
…381系は一部でまだ現役ですね。
日本初の振り子車両と言う事で「矢鱈と揺れる」と言う噂が先行して
しまい、当時国鉄のエンジニアだった山之内修一郎氏は新聞記者の
インタビューに「全然大丈夫、ワルツを踊ってるようなもんですよ。」
と口から出まかせを言ったら「中央本線にワルツ電車走る」みたいな
見出しになったそうな。
当時の世相としてはドルと円の変動相場制が導入された事や、オイル
ショックで品物が不足すると言う噂が流れ、トイレットペーパーなどの
買い占めが横行したような年だったらしいです。
…実際の所、当時の実家の物置きにハクキンカイロ用のベンジンが
大量にあったのと、トイレットペーパーが買えなかったのか祖父が書道
の練習をした半紙が便所紙として代用されてたのを覚えています。
ベンジンを燃料にするカイロってのも、今時使いませんよね。
近年も謎のウイルスの流行でマスクや消毒液が品薄になり、ドラッグ
ストアの前に老人が朝から行列を作ったような事がありましたが、
あの老人が計算上、50年前は子育て世代だった事になりますよね。
…つまり「昔の記憶が蘇って闘志が湧いた」と言う事なのでしょう。
迷惑な話です。
ついでに言うと私の世代は「紙おむつ」と言う物はソレほど一般的
ではなく、日本手拭を輪っか状に繋いだ物が使われてたのを覚えて
います。「おしり拭き」なんてのも存在しませんでしたな。
祖父の話が出たので私の祖父母について説明しておきましょう。
…まず私が子供の頃に同居してて「おじいちゃん・おばあちゃん」と
呼んでた人は、母の叔父と叔母なのですよ。
この夫婦に子供が無かったので、母が高校生ぐらいの時に養女に
入り、後に結婚した父は婿養子となりました。
当時は今より「家を継ぐ事」が重要視されており、後継者が居ない
場合、叔父叔母程度の親戚なら養子に出る事は当たり前だった
ようです。父も次男なので家を継ぐ必要が無かったのでしょう。
母が育ったのは大阪府堺市の浜寺付近だそうで、戦後の物のナイ
時代だから、奈良の田舎で「食うに困らない」環境が良かったらしい。
だから実際に直系の祖父母とは滅多に会わず、祖父は双方とも記憶
が殆どありません。
母方の祖父は私が産まれる前に亡くなってたし、父方のソレも数か月
しか被ってナイので当然の事に面識は(自覚として)ありません。
「俺はもうすぐ死ぬけどコイツはこれから成長して行くんだなあ。」
とか言ってたそうです。この辺のズレは私が遅く産まれた事も関係
しているのでしょう。
一緒に住んでた祖父(生年不詳)はコレまた元々教員で、退官後は
町の助役を務めた事もあったようですが、私は隠居後の「おじいちゃん」
としてしか知りません。書道は趣味でやってたようです。
昔の公務員(軍人を含む)には年金とは別に「恩給」と言う制度が
あり、退職後も幾らかの給料が出てたらしくカネには困ってなかった
と思われ、(私から見ると)変な骨董品などが多くありました。
…その一部が近年まで残っており、処分に苦労したワケですよ。
ぁ、軍隊(戦争)か。私の祖父なら太平洋戦争時に壮年期の筈だから
年齢的には徴兵対象でしょうが、実家の祖父に関しては聞いた事が
ありません。教員は対象外だったんでしょうか?
私が子供の頃は地区の墓地に軍人さんの区画があり、詳しくは知り
ませんが身内だと言う同じ苗字の人の墓があったのを覚えています。
祖母は1901年…明治34年の生まれなので、私が産まれた時点で
70歳を越えてました。加えて子供が居なかったので子育てを経験
した事がなく、母が外出する時などに面倒を見て貰ったような場合
「どぅも嚙み合わないなあ」と言う印象でした。
てかウチの祖父母の世代なら、田舎のソコソコ裕福な農家なら使用人
や女中さんなんかも居たようで、祖母は家事全般もソレほど得意じゃ
なかったような感じでした。
…こうして書いてると意外に色々と思い出すんですが、ドレが最古の
記憶か?と言われると曖昧ですね。ともあれ次回に続けます。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
2回目の今日は1973年…昭和48年で私が1歳の頃について書いて
みたいと思いますクラ駅長です。
話数と年齢を合わせる事にしたので初回(前回)が⓪、今回が①です。
とは言え1歳ではまだ確たる記憶はありませんので、今回も自分の
家族やソノ周辺に関しての内容になると思われますが。
まず鉄道に関して言えば同年は、国鉄の順法闘争にキレた利用者が
「上尾事件」や「首都圏国電暴動」などを起こした年です。新規デビュー
は381系特急電車や24系(24型)ブルートレイン等でしょう。
…381系は一部でまだ現役ですね。
日本初の振り子車両と言う事で「矢鱈と揺れる」と言う噂が先行して
しまい、当時国鉄のエンジニアだった山之内修一郎氏は新聞記者の
インタビューに「全然大丈夫、ワルツを踊ってるようなもんですよ。」
と口から出まかせを言ったら「中央本線にワルツ電車走る」みたいな
見出しになったそうな。
当時の世相としてはドルと円の変動相場制が導入された事や、オイル
ショックで品物が不足すると言う噂が流れ、トイレットペーパーなどの
買い占めが横行したような年だったらしいです。
…実際の所、当時の実家の物置きにハクキンカイロ用のベンジンが
大量にあったのと、トイレットペーパーが買えなかったのか祖父が書道
の練習をした半紙が便所紙として代用されてたのを覚えています。
ベンジンを燃料にするカイロってのも、今時使いませんよね。
近年も謎のウイルスの流行でマスクや消毒液が品薄になり、ドラッグ
ストアの前に老人が朝から行列を作ったような事がありましたが、
あの老人が計算上、50年前は子育て世代だった事になりますよね。
…つまり「昔の記憶が蘇って闘志が湧いた」と言う事なのでしょう。
迷惑な話です。
ついでに言うと私の世代は「紙おむつ」と言う物はソレほど一般的
ではなく、日本手拭を輪っか状に繋いだ物が使われてたのを覚えて
います。「おしり拭き」なんてのも存在しませんでしたな。
祖父の話が出たので私の祖父母について説明しておきましょう。
…まず私が子供の頃に同居してて「おじいちゃん・おばあちゃん」と
呼んでた人は、母の叔父と叔母なのですよ。
この夫婦に子供が無かったので、母が高校生ぐらいの時に養女に
入り、後に結婚した父は婿養子となりました。
当時は今より「家を継ぐ事」が重要視されており、後継者が居ない
場合、叔父叔母程度の親戚なら養子に出る事は当たり前だった
ようです。父も次男なので家を継ぐ必要が無かったのでしょう。
母が育ったのは大阪府堺市の浜寺付近だそうで、戦後の物のナイ
時代だから、奈良の田舎で「食うに困らない」環境が良かったらしい。
だから実際に直系の祖父母とは滅多に会わず、祖父は双方とも記憶
が殆どありません。
母方の祖父は私が産まれる前に亡くなってたし、父方のソレも数か月
しか被ってナイので当然の事に面識は(自覚として)ありません。
「俺はもうすぐ死ぬけどコイツはこれから成長して行くんだなあ。」
とか言ってたそうです。この辺のズレは私が遅く産まれた事も関係
しているのでしょう。
一緒に住んでた祖父(生年不詳)はコレまた元々教員で、退官後は
町の助役を務めた事もあったようですが、私は隠居後の「おじいちゃん」
としてしか知りません。書道は趣味でやってたようです。
昔の公務員(軍人を含む)には年金とは別に「恩給」と言う制度が
あり、退職後も幾らかの給料が出てたらしくカネには困ってなかった
と思われ、(私から見ると)変な骨董品などが多くありました。
…その一部が近年まで残っており、処分に苦労したワケですよ。
ぁ、軍隊(戦争)か。私の祖父なら太平洋戦争時に壮年期の筈だから
年齢的には徴兵対象でしょうが、実家の祖父に関しては聞いた事が
ありません。教員は対象外だったんでしょうか?
私が子供の頃は地区の墓地に軍人さんの区画があり、詳しくは知り
ませんが身内だと言う同じ苗字の人の墓があったのを覚えています。
祖母は1901年…明治34年の生まれなので、私が産まれた時点で
70歳を越えてました。加えて子供が居なかったので子育てを経験
した事がなく、母が外出する時などに面倒を見て貰ったような場合
「どぅも嚙み合わないなあ」と言う印象でした。
てかウチの祖父母の世代なら、田舎のソコソコ裕福な農家なら使用人
や女中さんなんかも居たようで、祖母は家事全般もソレほど得意じゃ
なかったような感じでした。
…こうして書いてると意外に色々と思い出すんですが、ドレが最古の
記憶か?と言われると曖昧ですね。ともあれ次回に続けます。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
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