クラ駅長50年史 ⑥
2022/12/17(Sat)
では土曜日ですので、ココで「クラ駅長50年史」の記事を挟む事に
致しますクラ駅長です。今回は1978年…昭和53年ですね。
Wikipediaから同年の出来事を拾ってみると、日産が「パルサー」
トヨタが「ターセル」「コルサ」の発売を開始した事が載ってました。
自家用車に縁のなかった当時の私は全く知らなかったんですが、
トヨタの2車種は同社初のFF(前輪駆動)車だったようです。
…この辺りから乗用車はFFが主流になって行ったんでしょうね。
私は今でも「車全体で走ってる」と言う気がするFR(後輪駆動)の
方が好きなのですが。
同年の年末に俳優の田宮二郎氏が、自宅で猟銃を使って自殺する
と言う事件がありました。
当時6歳の私はこんな人物は知らなかったワケで、新聞記事の
見出しを見て「たみやにろう」と読んで母に大笑いされたんですよ。
…親だったら他の漢字を読めた点を褒めて欲しい所です。
幼稚園児ですから。しかも「に」だって単品では当たってるじゃん。
同年の鉄道に関しては、先述したように京都市電が全廃された年
なのと国鉄では10月に、後に「ゴオ・サン・トオ」と呼ばれる大規模
な白紙ダイヤ改正が行われています。
この改正から在来線の優等列車でも「下りが奇数・上りが偶数」
と言う号数の振り方に変更されました(新幹線は当初から)。
…ちなみに狩人のヒット曲「あずさ2号」は前年の発表です。
そして特急料金の増収を狙ったのか、「特急増発」と言いつつ
ほぼ同数の急行を削減して特急に格上げし、所要時間や停車駅
が急行並みの「名ばかり特急」が大量に誕生しました。
…赤字続きなのに(今から考えると)カナリ無駄の多い経営だった
当時の国鉄としてもソレなりに頭を使った結果なのでしょう。
特急と言えば主に電車や寝台客車を使う物から順に、絵入りの
ヘッドマーク(又はテールマーク)が普及していったのも、同年の
改正辺りからだとされています。
所沢秀樹氏は著書の中で「未来の利用者となり得る子供たちを、
今のうちから手懐けておく作戦だろう。」と書いてましたが、まさに
私らがソレに相当する世代です。
同年の4月から私は幼稚園の年長組になります。…今でもある
のか謎ですが、幼稚園~小学校辺りでは朝礼などで整列する時、
出席番号より「背の順番」と言うのが多様されていました。
体が小さかった私は大抵前の方でしたね。当時で1クラスが45人
程度であり、男女半々とすれば20人強になりますが、最高でも
7番目程度だったように思います。
…体育の授業などでは体格の近い者同士を組ませる方が都合が
良いのでしょうが、意外とコンプレックスを感じるんですよ。
ともあれ幼稚園ではソレなりに友達も出来て、流行のテレビ番組
などの情報交換をするようになってました。
…しかし当時の私は夜7時には寝かされており、それより遅い
番組は殆ど見せて貰えなかったように思います。
ある時、先生が水槽に入れた何匹かのザリガニを持ってきた事が
ありました。意図としては「水辺の生き物に触れてみよう」みたいな
話だったんでしょうか?
いきなり掴んでハサミで挟まれてはイカンと言う事か、割り箸が
配られたんですよ。…昭和50年代にしては意外と親切です。
しかし数が少なかったのか私には行き渡らず。でも普段から近所
の川などで遊んでた私は、素手でザリガニを掴む程度の事は平気
だったので、特に必要ありませんでした。
私生活ではプラレールの連結器が壊れたのを針金で修理(代用)
して使ってたら、何故か「頭のいい子だ」と褒められました。
…別にソレほどのアイディアだと言う意識も無かったんですが。
アレはプラスチック製の物が雌雄になってるワケですが、丁寧に
扱ってても経年劣化で割れるものです。
後に自分が親になって、改めて長男とプラレールで遊ぶように
なった時「連結器の部品だけ」と言うのも売られてる事を知ったん
ですが、当時はそんな売り方はしてなかったんでしょうか?
…売っててもあの親では、そんな気の利いた発想は出ないでしょう。
そして何度か書いてる話ですが、長期の休みになると母に連れ
られて千葉(船橋市)の叔父の家によく遊びに行ってたのを覚えて
います。…その頻度が最も高かったのがこの頃だったんでしょう。
東京駅まで新幹線で行って、何故か(恐らく母に知識が無かった)
総武線の地下ホームへ降りる前に、一旦丸の内側の改札を出て
切符を買い直す時に、手土産のケーキを盗まれた事がありました。
…ホントに1分程度の間でしょう。母は「東京って怖い所だねー」
と言う印象になったようです。
同時期に母方の祖母(母と叔父の母)が亡くなっており、葬儀の
時に一度だけ父も一緒に行った事があります。
そのうちで1度、夕食を外で食べる事になって外出したんですが、
帰りに私は迷子になってしまいました(叔父一家も自家用車と言う
物を持ってなかった)。
当然の事に残された一行はパニックになり、母は私の手を繋いでた
従姉に珍しくキツい叱り方をしたらしいです。
しかし私は自力で叔父の家まで先に帰り、たまたま開いてた縁側
の戸から家に入って助かったんですよ。…Googleマップで見ると
夕食のお店(と思われる地点)から約1kmの距離です。
「死んだお祖母ちゃんが導いてくれたんだ」と言われましたが、
私は当時でもソノ程度の方向感覚と土地勘ぐらい持ち合わせて
おり、逆に母の方向音痴っぷりを危惧してたぐらいでした。
そう言えば一度、現地で私と母親だけで自転車を借りて出掛けた
事がありましたね。
春頃だったのか「つくしを採りに行こう」と言う事で母&私のチーム
と叔母&従姉のチームに分かれたんですが、当時は船橋市辺り
でも、結構な広さの空き地が随所にあったようです。
…携帯電話もない時代、あの親が適当に自転車で走り回ってよく
無事に帰れたものだと思います。それこそ「お祖母ちゃんの加護」
だったのかも知れません。
話を奈良県に戻しますが、この頃から母は原付バイクに乗るように
なりました。ヤマハから「パッソル」「パッソーラ」が発売されたのが、
奇しくも同年の事です。
上記2車種は「女性がスカートでも乗れるバイク」と言う事で、CM
キャラクターを母と同世代の八千草薫さんが務めており、その販売
戦略に見事に引っ掛かって、母は「パッソーラ」を買いました。
「パッソーラ」は「パッソル」の上級グレードで、確かに一回り大きい
印象です。…原付だからエンジンは同じ50ccなものの、最高出力
が大きく、2速のオートマチック車なのだそうです。
…元々車の免許は持ってるから、バイク屋さんから借りたカセット
テープつきのテキストで乗り方の勉強をしてました。
横で聞いてた私は何故か 「マフラーと言っても寒い時に首に巻く
物ではありません。」と言う間抜けな解説を1つだけ覚えています。
…「そのレベルから教えにゃならん」と言う時代だったんでしょう。
当時はヘルメットの着用義務もなく、2人乗りに関してもユルかった
から私もよく一緒に乗せられてました。…この辺りへ行くと長くなる
ので、機会を改める事にしましょう。
次回はいよいよ小学校入学ですね。…適当にお楽しみに。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
致しますクラ駅長です。今回は1978年…昭和53年ですね。
Wikipediaから同年の出来事を拾ってみると、日産が「パルサー」
トヨタが「ターセル」「コルサ」の発売を開始した事が載ってました。
自家用車に縁のなかった当時の私は全く知らなかったんですが、
トヨタの2車種は同社初のFF(前輪駆動)車だったようです。
…この辺りから乗用車はFFが主流になって行ったんでしょうね。
私は今でも「車全体で走ってる」と言う気がするFR(後輪駆動)の
方が好きなのですが。
同年の年末に俳優の田宮二郎氏が、自宅で猟銃を使って自殺する
と言う事件がありました。
当時6歳の私はこんな人物は知らなかったワケで、新聞記事の
見出しを見て「たみやにろう」と読んで母に大笑いされたんですよ。
…親だったら他の漢字を読めた点を褒めて欲しい所です。
幼稚園児ですから。しかも「に」だって単品では当たってるじゃん。
同年の鉄道に関しては、先述したように京都市電が全廃された年
なのと国鉄では10月に、後に「ゴオ・サン・トオ」と呼ばれる大規模
な白紙ダイヤ改正が行われています。
この改正から在来線の優等列車でも「下りが奇数・上りが偶数」
と言う号数の振り方に変更されました(新幹線は当初から)。
…ちなみに狩人のヒット曲「あずさ2号」は前年の発表です。
そして特急料金の増収を狙ったのか、「特急増発」と言いつつ
ほぼ同数の急行を削減して特急に格上げし、所要時間や停車駅
が急行並みの「名ばかり特急」が大量に誕生しました。
…赤字続きなのに(今から考えると)カナリ無駄の多い経営だった
当時の国鉄としてもソレなりに頭を使った結果なのでしょう。
特急と言えば主に電車や寝台客車を使う物から順に、絵入りの
ヘッドマーク(又はテールマーク)が普及していったのも、同年の
改正辺りからだとされています。
所沢秀樹氏は著書の中で「未来の利用者となり得る子供たちを、
今のうちから手懐けておく作戦だろう。」と書いてましたが、まさに
私らがソレに相当する世代です。
同年の4月から私は幼稚園の年長組になります。…今でもある
のか謎ですが、幼稚園~小学校辺りでは朝礼などで整列する時、
出席番号より「背の順番」と言うのが多様されていました。
体が小さかった私は大抵前の方でしたね。当時で1クラスが45人
程度であり、男女半々とすれば20人強になりますが、最高でも
7番目程度だったように思います。
…体育の授業などでは体格の近い者同士を組ませる方が都合が
良いのでしょうが、意外とコンプレックスを感じるんですよ。
ともあれ幼稚園ではソレなりに友達も出来て、流行のテレビ番組
などの情報交換をするようになってました。
…しかし当時の私は夜7時には寝かされており、それより遅い
番組は殆ど見せて貰えなかったように思います。
ある時、先生が水槽に入れた何匹かのザリガニを持ってきた事が
ありました。意図としては「水辺の生き物に触れてみよう」みたいな
話だったんでしょうか?
いきなり掴んでハサミで挟まれてはイカンと言う事か、割り箸が
配られたんですよ。…昭和50年代にしては意外と親切です。
しかし数が少なかったのか私には行き渡らず。でも普段から近所
の川などで遊んでた私は、素手でザリガニを掴む程度の事は平気
だったので、特に必要ありませんでした。
私生活ではプラレールの連結器が壊れたのを針金で修理(代用)
して使ってたら、何故か「頭のいい子だ」と褒められました。
…別にソレほどのアイディアだと言う意識も無かったんですが。
アレはプラスチック製の物が雌雄になってるワケですが、丁寧に
扱ってても経年劣化で割れるものです。
後に自分が親になって、改めて長男とプラレールで遊ぶように
なった時「連結器の部品だけ」と言うのも売られてる事を知ったん
ですが、当時はそんな売り方はしてなかったんでしょうか?
…売っててもあの親では、そんな気の利いた発想は出ないでしょう。
そして何度か書いてる話ですが、長期の休みになると母に連れ
られて千葉(船橋市)の叔父の家によく遊びに行ってたのを覚えて
います。…その頻度が最も高かったのがこの頃だったんでしょう。
東京駅まで新幹線で行って、何故か(恐らく母に知識が無かった)
総武線の地下ホームへ降りる前に、一旦丸の内側の改札を出て
切符を買い直す時に、手土産のケーキを盗まれた事がありました。
…ホントに1分程度の間でしょう。母は「東京って怖い所だねー」
と言う印象になったようです。
同時期に母方の祖母(母と叔父の母)が亡くなっており、葬儀の
時に一度だけ父も一緒に行った事があります。
そのうちで1度、夕食を外で食べる事になって外出したんですが、
帰りに私は迷子になってしまいました(叔父一家も自家用車と言う
物を持ってなかった)。
当然の事に残された一行はパニックになり、母は私の手を繋いでた
従姉に珍しくキツい叱り方をしたらしいです。
しかし私は自力で叔父の家まで先に帰り、たまたま開いてた縁側
の戸から家に入って助かったんですよ。…Googleマップで見ると
夕食のお店(と思われる地点)から約1kmの距離です。
「死んだお祖母ちゃんが導いてくれたんだ」と言われましたが、
私は当時でもソノ程度の方向感覚と土地勘ぐらい持ち合わせて
おり、逆に母の方向音痴っぷりを危惧してたぐらいでした。
そう言えば一度、現地で私と母親だけで自転車を借りて出掛けた
事がありましたね。
春頃だったのか「つくしを採りに行こう」と言う事で母&私のチーム
と叔母&従姉のチームに分かれたんですが、当時は船橋市辺り
でも、結構な広さの空き地が随所にあったようです。
…携帯電話もない時代、あの親が適当に自転車で走り回ってよく
無事に帰れたものだと思います。それこそ「お祖母ちゃんの加護」
だったのかも知れません。
話を奈良県に戻しますが、この頃から母は原付バイクに乗るように
なりました。ヤマハから「パッソル」「パッソーラ」が発売されたのが、
奇しくも同年の事です。
上記2車種は「女性がスカートでも乗れるバイク」と言う事で、CM
キャラクターを母と同世代の八千草薫さんが務めており、その販売
戦略に見事に引っ掛かって、母は「パッソーラ」を買いました。
「パッソーラ」は「パッソル」の上級グレードで、確かに一回り大きい
印象です。…原付だからエンジンは同じ50ccなものの、最高出力
が大きく、2速のオートマチック車なのだそうです。
…元々車の免許は持ってるから、バイク屋さんから借りたカセット
テープつきのテキストで乗り方の勉強をしてました。
横で聞いてた私は何故か 「マフラーと言っても寒い時に首に巻く
物ではありません。」と言う間抜けな解説を1つだけ覚えています。
…「そのレベルから教えにゃならん」と言う時代だったんでしょう。
当時はヘルメットの着用義務もなく、2人乗りに関してもユルかった
から私もよく一緒に乗せられてました。…この辺りへ行くと長くなる
ので、機会を改める事にしましょう。
次回はいよいよ小学校入学ですね。…適当にお楽しみに。
※→次回に続く
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