クラ駅長50年史 ⑬
2023/02/04(Sat)
では今週も、ココで土曜日恒例の「クラ駅長50年史」の記事を挟む
事に致します。今回は1985年…昭和60年ですね。
例によって、同年の出来事をWikipediaから拾ってみましょう。
ココを見て下さってる方の年齢層って、全てを把握してるワケでは
ありませんが、例えば約10歳年下の方でもそろそろ記憶に残ってる
時代ではナイでしょうか?と思いますクラ駅長です。
取り敢えず数多く書いてあるのは「戦後40年」と言う事でしょう。
太平洋戦争の終戦が昭和20年だから、計算しやすい数字です。
それに伴い、昭和20年から「終戦を契機に始まった物」も40周年を
迎えたケースが多かった事になるのでしょう。
…無関係な所ではファミコンの「スーパーマリオブラザーズ」が
発売され、空前のヒット商品となったワケですが、私はテレビゲーム
そのものに特に興味が無かったので、今でもソレほど知りません。
電電公社と専売公社が民営化され、それぞれNTTと日本たばこ
産業に変わったのも同年の事ですか。
…カード式公衆電話と言う物が登場したのが昭和57年の事であり、
その3年間に売られた「電電公社製のテレホンカード」と言う物が
後にプレミア化したのを覚えています。
大きな事故としては、羽田から大阪へ向かっていた日本航空の
ジャンボジェット機が、群馬県の山中に墜落したのも同年です。
…恐らくは過去の日本で最大規模の飛行機事故ですよね。
当時の素直な感想として…被害者が不運だったのは当然ですが、
夏場の暑い時期に体育館を遺体安置所に使われた、現場近くの
高校の生徒さんも相当に可哀想だなと思いました。
同年の鉄道の話題としては、東北上越新幹線が上野駅に乗り
入れるようになったのに対して、北海道や九州で相当な距離の
赤字ローカル線が廃止されています。
Wikipediaの当該ページは、とにかく廃止された路線と駅が矢鱈
と並んでおり、他に目立った記事が見当たらないぐらいでした。
地元の関西本線では、平城山駅と高井田駅が新規開業した事
が載ってました。…この両駅の前後は、現在でも「長いよな」と
思える区間であり、無ければ猶更な所です。
この頃から国鉄も「市街地は私鉄なみに駅を増やしておかないと
ヤバい」と感じ始めたのかも知れません。まぁ遅いけど。
…正直に言えば、このぐらいの時期までに北海道や九州で乗り
潰しをやりたかったですね。
テレビや本で見て知識だけはあるのに、子供だから勝手に行動
出来ないと言う、中途半端な立ち位置だったのが残念です
(…首都圏在住の子供は、もぅ少しハードルが低いイメージ)。
私は4月から中学校に進学するワケですが、この時点では特に
私学受験もしなかったので、地元の自治体にある公立中学校に
そのまま入る事になりました。
5つの小学校が地域別に2つの中学校に再編されるので、学校
によっては2校に分かれる場合もあるんですが、私の小学校から
は全員が揃って同じ学校に進学する事になります。
やはり男女合わせて45人程度のクラスが、8か9ありました。
家から遠いので自転車通学です(地域による縛りがあった)。
1年生の担任だったのが、岡西先生と言う体育担当の男の先生
なんですが、私の父も中学校の教員だし年が近いので、父とは
顔見知りだったようです。
学校内には他にも同様の先生が何人か居るから、挨拶代わりに
「お父さん元気?」とか日々訊かれるし、しょうもない悪さをすると
「お父さんに言うぞ」となるから、地味に居心地が悪かったな。
そして「中学生になったら将来の備えのため」と言う事で塾通い
をする事になり、それに先立って小学校6年生の3学期頃から、
隣の市の進学塾に通う事になります。
これまた「電車で通える」と言うのが勉強以上の楽しみになる
んですが、週に3度(月水金か火木土)で18時~21時ぐらいの
時間帯なのですよ。
学校から帰って軽めに夕食を取り、帰ってまた食べたりコンビニ
で買い食いをしたりと食生活のバランスが崩れてしまい、ココから
「太り気味」と言う体系で人生の大半を過ごす羽目になりました。
中学校からは本格的にクラブ活動が始まるので、歴史の勉強が
楽しみだった私は郷土研究部と言う文科系のクラブに入りました。
…奈良県は古い寺院や古墳などの文化財に事欠かない地域だし、
地元の町には大規模な弥生時代の集落遺跡があります。
ココの顧問だった石橋先生(20代男性)には割と気に入られてた
ように思います。…若いから年長の先生のような先入観も持って
ナイし、冗談の通じる人だったので私も好きでした。
クラブ活動と言っても生徒の自主性は少なく、顧問の石橋先生
(社会科担当で専門は日本史)がずっと部長をやってる感じです。
博物館の見学や地元の町を回ってのフィールドワークみたいな
事を組んで、ネタとなる課題を与えてくれるのを調べてレポート
を書いたり、文化祭で展示を行なったりしてました。
…考古学の事を英語で「Archaeology…アーケオロジー」と言うん
ですが、ソレを文字った「歩けオロジー」と言う洒落があるらしく、
矢鱈とよく歩かされましたね。
でも私も若いので体力が有り余っており、ソレほどの苦痛では
ありませんでした。…心地いい疲れと言うか。
文化祭に向けて夏休みは地元の町の石造物(道標や常夜灯など)
を調べる活動が連続してた(加えて塾もある)ので、中学生の時は
宿泊を要するような旅行には行けませんでした。
…この時に興味を持った、主に江戸時代辺りの民間信仰(各村に
あるお地蔵さんなどを地域で祀る活動)は、後に大学生になった
時にも興味が復活して、そっち関係の専攻をする事になります。
予期せずクラブ活動の部分が大きくなってしまいました。
次回は中学校2年生になりますが、それ以外の事も思い出しつつ
書いてみる事にしましょう。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
事に致します。今回は1985年…昭和60年ですね。
例によって、同年の出来事をWikipediaから拾ってみましょう。
ココを見て下さってる方の年齢層って、全てを把握してるワケでは
ありませんが、例えば約10歳年下の方でもそろそろ記憶に残ってる
時代ではナイでしょうか?と思いますクラ駅長です。
取り敢えず数多く書いてあるのは「戦後40年」と言う事でしょう。
太平洋戦争の終戦が昭和20年だから、計算しやすい数字です。
それに伴い、昭和20年から「終戦を契機に始まった物」も40周年を
迎えたケースが多かった事になるのでしょう。
…無関係な所ではファミコンの「スーパーマリオブラザーズ」が
発売され、空前のヒット商品となったワケですが、私はテレビゲーム
そのものに特に興味が無かったので、今でもソレほど知りません。
電電公社と専売公社が民営化され、それぞれNTTと日本たばこ
産業に変わったのも同年の事ですか。
…カード式公衆電話と言う物が登場したのが昭和57年の事であり、
その3年間に売られた「電電公社製のテレホンカード」と言う物が
後にプレミア化したのを覚えています。
大きな事故としては、羽田から大阪へ向かっていた日本航空の
ジャンボジェット機が、群馬県の山中に墜落したのも同年です。
…恐らくは過去の日本で最大規模の飛行機事故ですよね。
当時の素直な感想として…被害者が不運だったのは当然ですが、
夏場の暑い時期に体育館を遺体安置所に使われた、現場近くの
高校の生徒さんも相当に可哀想だなと思いました。
同年の鉄道の話題としては、東北上越新幹線が上野駅に乗り
入れるようになったのに対して、北海道や九州で相当な距離の
赤字ローカル線が廃止されています。
Wikipediaの当該ページは、とにかく廃止された路線と駅が矢鱈
と並んでおり、他に目立った記事が見当たらないぐらいでした。
地元の関西本線では、平城山駅と高井田駅が新規開業した事
が載ってました。…この両駅の前後は、現在でも「長いよな」と
思える区間であり、無ければ猶更な所です。
この頃から国鉄も「市街地は私鉄なみに駅を増やしておかないと
ヤバい」と感じ始めたのかも知れません。まぁ遅いけど。
…正直に言えば、このぐらいの時期までに北海道や九州で乗り
潰しをやりたかったですね。
テレビや本で見て知識だけはあるのに、子供だから勝手に行動
出来ないと言う、中途半端な立ち位置だったのが残念です
(…首都圏在住の子供は、もぅ少しハードルが低いイメージ)。
私は4月から中学校に進学するワケですが、この時点では特に
私学受験もしなかったので、地元の自治体にある公立中学校に
そのまま入る事になりました。
5つの小学校が地域別に2つの中学校に再編されるので、学校
によっては2校に分かれる場合もあるんですが、私の小学校から
は全員が揃って同じ学校に進学する事になります。
やはり男女合わせて45人程度のクラスが、8か9ありました。
家から遠いので自転車通学です(地域による縛りがあった)。
1年生の担任だったのが、岡西先生と言う体育担当の男の先生
なんですが、私の父も中学校の教員だし年が近いので、父とは
顔見知りだったようです。
学校内には他にも同様の先生が何人か居るから、挨拶代わりに
「お父さん元気?」とか日々訊かれるし、しょうもない悪さをすると
「お父さんに言うぞ」となるから、地味に居心地が悪かったな。
そして「中学生になったら将来の備えのため」と言う事で塾通い
をする事になり、それに先立って小学校6年生の3学期頃から、
隣の市の進学塾に通う事になります。
これまた「電車で通える」と言うのが勉強以上の楽しみになる
んですが、週に3度(月水金か火木土)で18時~21時ぐらいの
時間帯なのですよ。
学校から帰って軽めに夕食を取り、帰ってまた食べたりコンビニ
で買い食いをしたりと食生活のバランスが崩れてしまい、ココから
「太り気味」と言う体系で人生の大半を過ごす羽目になりました。
中学校からは本格的にクラブ活動が始まるので、歴史の勉強が
楽しみだった私は郷土研究部と言う文科系のクラブに入りました。
…奈良県は古い寺院や古墳などの文化財に事欠かない地域だし、
地元の町には大規模な弥生時代の集落遺跡があります。
ココの顧問だった石橋先生(20代男性)には割と気に入られてた
ように思います。…若いから年長の先生のような先入観も持って
ナイし、冗談の通じる人だったので私も好きでした。
クラブ活動と言っても生徒の自主性は少なく、顧問の石橋先生
(社会科担当で専門は日本史)がずっと部長をやってる感じです。
博物館の見学や地元の町を回ってのフィールドワークみたいな
事を組んで、ネタとなる課題を与えてくれるのを調べてレポート
を書いたり、文化祭で展示を行なったりしてました。
…考古学の事を英語で「Archaeology…アーケオロジー」と言うん
ですが、ソレを文字った「歩けオロジー」と言う洒落があるらしく、
矢鱈とよく歩かされましたね。
でも私も若いので体力が有り余っており、ソレほどの苦痛では
ありませんでした。…心地いい疲れと言うか。
文化祭に向けて夏休みは地元の町の石造物(道標や常夜灯など)
を調べる活動が連続してた(加えて塾もある)ので、中学生の時は
宿泊を要するような旅行には行けませんでした。
…この時に興味を持った、主に江戸時代辺りの民間信仰(各村に
あるお地蔵さんなどを地域で祀る活動)は、後に大学生になった
時にも興味が復活して、そっち関係の専攻をする事になります。
予期せずクラブ活動の部分が大きくなってしまいました。
次回は中学校2年生になりますが、それ以外の事も思い出しつつ
書いてみる事にしましょう。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
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