クラ駅長50年史 ㉒-2
2023/04/09(Sun)
1994年…平成6年で書くべき事が多いので、日曜日の本日も
「クラ駅長50年史」のネタを続ける事に致しますクラ駅長です。
…私は同年は4月から大学の3回生であり、前回は「学校で何を
してたのか?」と言う事で勉強(ゼミ)に関して書いたワケですが、
今回は部活(写真部)について思い出してみましょう。
ずっと一般的な呼称として「写真部」と書いてますが、正確には
「写真研究会」と称してました。…コレは同大学の慣例と言うか、
「サークル=研究会」「正式な部活=部」と言う区別があったから
なのですよ。
ウチは元々サークルから始まって、途中で「部」に昇格したものの、
名前を変えるタイミングを失ったからだと思われます。
「部」になると文科系は「文化会」、スポーツ系は「体育会」と言う
上部団体に属する事になり、委員を送ったりする必要がある反面、
活動費の補助などが貰えると言う仕組みでした。
…で何をしてたのか?
大きな行事としては学校外で行う写真展が年に2回と、学園祭で
学校内のスペースを使って行う写真展が1回あり、基本的にはソレ
に向けての作品創りと言う事になりますね。
日々の生活や旅行先などで写真を撮り、その中から展示出来そう
な物を選んでいく感じになります。
当時の事だから、デジタル写真と言う物は(あったかも知れんけど)
一般には普及しておらず、白黒のフィルムで撮ってソレを現像し、
暗室で印画紙に焼き付けると言う作業です。
割と広い暗室があって、高校のソレより格段に立派な設備でしたが、
ソノ分写真の撮り方や現像作業に関して、カナリ高いクオリティを
求められる所でした。
まず入部すると1回生は同年の7月頃にある「新人展」に向けて、
先輩の指導で作品創りを始めるワケですが、被写体は「子供」に
限定されています。
…「子供に話し掛けながら撮る」と言うのも技量のうちだからなん
だそうで、休みの日に奈良公園とかに行って親子連れに頼んで
撮らせて貰うんですが、肖像権に関してもユルい時代だったん
でしょう。今同じ事をするのは時代的に無理かも知れません。
何事も「まず基本から」と言う事で、レンズは50mm限定でオート
フォーカスは不可、焼く時の画角もトリミング不可でした。
…後に加藤ゆかさんと言うプロの写真家さんの写真展に行って
ソノ話をしたら「ソレは写真学校のレベルです」と言われましたが。
で撮った写真をサービス判の印画紙に焼き、週に2回行われる
「例会」に出して「こんな意図で撮った、こんな事を伝えたい。」と
発表し、他の部員からの意見を得て通れば写真展に出せると
言う流れになります。
そもそも撮り方や作業の基準が厳しいもんだから、最初のうちは
先輩から酷評されてナカナカ通らない。ユルく撮りたい写真を
撮りたいだけの者には鬱陶しいルールだったかも知れません。
加えて言うと、一緒に活動してる先輩(又は同級生や後輩)から
批評されるのはイイとして、たまに顔を出すだけのOB連中が
口出しするのはカナリ嫌だった覚えがあります。
私の前年に入った代は、それが嫌で1年持たずに辞めた者が
大半であり、私も最初は「何で自由に出来ないのか?」と疑問
でしたが、そのうちに慣れてしまいました。
…後にルールが変わり、意見を得て「それでも出したい」「撮り
直してくる」が自分で選べるようになります。
風景や静物のように撮り直しが可能な物はイイですが、スポーツ
の一瞬とか、その時でないと撮れない物だってあるでしょうに。
今みたいにブログやYouTubeがあれば誰でも自由に作品を発表
出来ますが、当時はドコかに所属して写真展に出すか、カメラ
雑誌のコンテストに応募するしか発表の場が無かったので。
そんな感じで作品を創っていくワケですが、展示スペースは毎年
概ね決まってるから、人数が少ないと1人当たりの「ノルマ」が
増える事になり、ソコで「人手不足だと困る」事になるんですよ。
で通った作品は「全紙」と言う通常で最大サイズの印画紙に焼く
んですが、コレが土曜の午後(当時は土曜の午前中は講義が
あった)から「終わるまで」と言う長丁場の共同作業になります。
作品展が近くなるほど扱う枚数が増えるから、最大で翌朝8時
頃までやってた覚えがありますが、暗室に入る人数は限られる
ので、残りはパネル作りの木工作業をやるんですよ。
「全紙」は当時のカメラのファインダーの画角と縦横比が違うから、
市販の物は使わないのがお約束でした。
取引のある材木屋さんから配達して貰うベニヤ板と角材で延々と
ノコギリと金槌を使って作業してるから、写真部なんだか工作部
だか分からん状況になります。
…でまたソレにも無駄な精度を求められるのが難儀な話でしたね。
しかしコレは今、鉄道模型のベースパネルを作る技術に役立って
います。何事も経験しておく事は大事だと思いますよ。
3回生になると私は、「代行」ではない正式な「主将」となります。
…しかし先述の通り給料が上がるワケでもナイし、何か特権的な
振舞いが出来るもんでもナイ、学生の部活とは理不尽な物です。
後輩はソコソコの人数が確保出来たし、僅かながら女の子も
入ったので、私が1回生の時よりは充実した陣容になりました。
作業以外は、上下関係なく馬鹿話もするし一緒に夕食に行くし、
楽しい雰囲気ではありました。…私が日常的に車を出せるから、
徒歩ではキツいようなお店にも行けるようになりますし。
食事は概ね「1回生はタダ」と言う事で、コレは学年順の「持ちつ
持たれつ」です。…後輩が増えると負担も増えるけど。
また「一緒に活動した事のナイOBが嫌い」と言う事で、後輩には
同じ思いをさせないように下級生との関りは最低限に留めて、
彼等に「行っても面白くない」と思わせる空気にしてやりました。
…今回も書きたい事が全部書けてナイ、些かの消化不良ではあり
ますが、コレまた次回(翌年相当)の記事に続ける事にしましょう。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
「クラ駅長50年史」のネタを続ける事に致しますクラ駅長です。
…私は同年は4月から大学の3回生であり、前回は「学校で何を
してたのか?」と言う事で勉強(ゼミ)に関して書いたワケですが、
今回は部活(写真部)について思い出してみましょう。
ずっと一般的な呼称として「写真部」と書いてますが、正確には
「写真研究会」と称してました。…コレは同大学の慣例と言うか、
「サークル=研究会」「正式な部活=部」と言う区別があったから
なのですよ。
ウチは元々サークルから始まって、途中で「部」に昇格したものの、
名前を変えるタイミングを失ったからだと思われます。
「部」になると文科系は「文化会」、スポーツ系は「体育会」と言う
上部団体に属する事になり、委員を送ったりする必要がある反面、
活動費の補助などが貰えると言う仕組みでした。
…で何をしてたのか?
大きな行事としては学校外で行う写真展が年に2回と、学園祭で
学校内のスペースを使って行う写真展が1回あり、基本的にはソレ
に向けての作品創りと言う事になりますね。
日々の生活や旅行先などで写真を撮り、その中から展示出来そう
な物を選んでいく感じになります。
当時の事だから、デジタル写真と言う物は(あったかも知れんけど)
一般には普及しておらず、白黒のフィルムで撮ってソレを現像し、
暗室で印画紙に焼き付けると言う作業です。
割と広い暗室があって、高校のソレより格段に立派な設備でしたが、
ソノ分写真の撮り方や現像作業に関して、カナリ高いクオリティを
求められる所でした。
まず入部すると1回生は同年の7月頃にある「新人展」に向けて、
先輩の指導で作品創りを始めるワケですが、被写体は「子供」に
限定されています。
…「子供に話し掛けながら撮る」と言うのも技量のうちだからなん
だそうで、休みの日に奈良公園とかに行って親子連れに頼んで
撮らせて貰うんですが、肖像権に関してもユルい時代だったん
でしょう。今同じ事をするのは時代的に無理かも知れません。
何事も「まず基本から」と言う事で、レンズは50mm限定でオート
フォーカスは不可、焼く時の画角もトリミング不可でした。
…後に加藤ゆかさんと言うプロの写真家さんの写真展に行って
ソノ話をしたら「ソレは写真学校のレベルです」と言われましたが。
で撮った写真をサービス判の印画紙に焼き、週に2回行われる
「例会」に出して「こんな意図で撮った、こんな事を伝えたい。」と
発表し、他の部員からの意見を得て通れば写真展に出せると
言う流れになります。
そもそも撮り方や作業の基準が厳しいもんだから、最初のうちは
先輩から酷評されてナカナカ通らない。ユルく撮りたい写真を
撮りたいだけの者には鬱陶しいルールだったかも知れません。
加えて言うと、一緒に活動してる先輩(又は同級生や後輩)から
批評されるのはイイとして、たまに顔を出すだけのOB連中が
口出しするのはカナリ嫌だった覚えがあります。
私の前年に入った代は、それが嫌で1年持たずに辞めた者が
大半であり、私も最初は「何で自由に出来ないのか?」と疑問
でしたが、そのうちに慣れてしまいました。
…後にルールが変わり、意見を得て「それでも出したい」「撮り
直してくる」が自分で選べるようになります。
風景や静物のように撮り直しが可能な物はイイですが、スポーツ
の一瞬とか、その時でないと撮れない物だってあるでしょうに。
今みたいにブログやYouTubeがあれば誰でも自由に作品を発表
出来ますが、当時はドコかに所属して写真展に出すか、カメラ
雑誌のコンテストに応募するしか発表の場が無かったので。
そんな感じで作品を創っていくワケですが、展示スペースは毎年
概ね決まってるから、人数が少ないと1人当たりの「ノルマ」が
増える事になり、ソコで「人手不足だと困る」事になるんですよ。
で通った作品は「全紙」と言う通常で最大サイズの印画紙に焼く
んですが、コレが土曜の午後(当時は土曜の午前中は講義が
あった)から「終わるまで」と言う長丁場の共同作業になります。
作品展が近くなるほど扱う枚数が増えるから、最大で翌朝8時
頃までやってた覚えがありますが、暗室に入る人数は限られる
ので、残りはパネル作りの木工作業をやるんですよ。
「全紙」は当時のカメラのファインダーの画角と縦横比が違うから、
市販の物は使わないのがお約束でした。
取引のある材木屋さんから配達して貰うベニヤ板と角材で延々と
ノコギリと金槌を使って作業してるから、写真部なんだか工作部
だか分からん状況になります。
…でまたソレにも無駄な精度を求められるのが難儀な話でしたね。
しかしコレは今、鉄道模型のベースパネルを作る技術に役立って
います。何事も経験しておく事は大事だと思いますよ。
3回生になると私は、「代行」ではない正式な「主将」となります。
…しかし先述の通り給料が上がるワケでもナイし、何か特権的な
振舞いが出来るもんでもナイ、学生の部活とは理不尽な物です。
後輩はソコソコの人数が確保出来たし、僅かながら女の子も
入ったので、私が1回生の時よりは充実した陣容になりました。
作業以外は、上下関係なく馬鹿話もするし一緒に夕食に行くし、
楽しい雰囲気ではありました。…私が日常的に車を出せるから、
徒歩ではキツいようなお店にも行けるようになりますし。
食事は概ね「1回生はタダ」と言う事で、コレは学年順の「持ちつ
持たれつ」です。…後輩が増えると負担も増えるけど。
また「一緒に活動した事のナイOBが嫌い」と言う事で、後輩には
同じ思いをさせないように下級生との関りは最低限に留めて、
彼等に「行っても面白くない」と思わせる空気にしてやりました。
…今回も書きたい事が全部書けてナイ、些かの消化不良ではあり
ますが、コレまた次回(翌年相当)の記事に続ける事にしましょう。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
No.1470 ○○について考える