クラ駅長50年史 ④
2022/12/03(Sat)
今週もまた土曜日が来ましたので、恒例のクラ駅長50年史をお送り
致しますクラ駅長です。今回は1976年…昭和51年ですね。
…その前に前回の書き忘れなんですが、昭和50年の11月で満3歳
と言う事で、恐らく前年の同月に七五三に連れて行かれた筈です。
年号が曖昧な所ではありますがソレ自体は記憶として残ってるし、
基本的に七五三と言うのは11月頃の行事ですから。
一応は羽織袴のような和装だったんですが、足袋や草履に慣れて
なかったので殆ど父親が抱えて運んでたように覚えています。
それと何か細長い袋を持って記念写真を撮ったのは覚えてますが、
アレが千歳飴だとは当時は全く知りませんでした。
…母親が合成着色料などを嫌ってたので、中身を知らされる事なく
取り上げられたのだと思われます。勝手な話ですね。
では話を昭和51年に戻しましょう。
同年の鉄道史を見れば、特に大きな出来事はなかったようですが
仙台市電や後述する京都市電のカナリの部分が廃止され、札幌市
や横浜市では地下鉄の新規開業が見られます。
…コレまた都市交通の変化と言う点では対照的な出来事ですね。
地元の近鉄では前年に当時で私鉄最長だった大阪線の新青山
トンネルが開通し、同線と鳥羽線の全区間が複線化してました。
昭和51年の春には、ソレに伴うダイヤ改正が行われています。
我が家では2月に祖父が亡くなりました。76歳だったのかな?
当時の葬式って自宅でやるのが一般的だったし、家から墓までは
自動車の霊柩車ではなくだんじりみたいな動力のナイ4輪の車に
棺桶を載せて、親族がみんなで引っ張って行ったのを覚えています。
…昔は火葬場や墓地が大抵は同じ集落内にあり、ソレほど遠く
なかったから可能だったのでしょう。
私はまだ幼稚園にも行ってナイので、日々の生活は前年と特に
変わってなかったと思うんですが、父親とは別に母親にも色々と
連れ回されてた記憶があります。
コレまた年号は不明なものの、恐らくコノ頃で覚えてる話を1件。
…コレは以前にも書いたので、再掲載のような感じになります。
母親は父親より行動範囲が広かったので、電車で大阪や京都へ
出掛ける事が時々ありました。母は京都の大学へ通ってたのと、
当時の友達などを訪ねて大阪辺りへ行く機会があったのでしょう。
で当時、母はメンタル的に色々と病んでたらしく(父親は悪人では
ナイのだが仕事一途な人だったからか?)、軽く自殺を考えてた
時期があったようなんです。
私を連れて京都の町をウロウロして、当時まだ残ってた京都市電に
乗ったり、旅館の2階みたいな所で休憩した覚えがあるんですよ。
…調べてみるに京都市電が全廃されたのは昭和53年の事であり、
その2年前なら京都駅の烏丸口に出入りする烏丸線や河原町線
が残っていました。恐らくソレに乗ったんでしょうね。
で夜の遅い時間(21時頃か?)になって、私が「おうちへかえる」と
言った事で我に返り「この子のために生きないと」と決意したそうな。
…その一言が無かったら私は殺されてたかも知れません。
ともあれ微妙な所で生き残った私は、その後も色々と両親が別々
に各地を連れ回してたようです。
例えば長谷寺(桜井市)の「だだ押し」と言う節分行事にも連れて
行かれたようですが、夜だし寒いし巨大な鬼が出てくるし、私は
単に泣きまくってただけらしいです。
…そりゃそうだろう、現代で夜中にドン・キホーテの店内などで幼児
を連れてるヤンキー一家と方向性は違うものの、結果的には似た
ような虐待行為ではナイのか?意図がイマイチ分かりません。
地元を走る近鉄橿原線は、国道25号線と交差する筒井駅付近が
高架化されてるんですが、その切り替え工事(複線の1本ずつを
高架化する)をリアルタイムで見た記憶があります。
…資料によると、コレが同年から翌52年にかけての事なんですが、
4歳では当然に親に連れられて乗ってる筈ですよね。
時期がはっきりしないものの、遠い所では千葉(船橋市)の叔父の
家にもよく連れて行かれました。
…近鉄で京都まで出て東海道新幹線に乗るのは今と変わらない
ものの、当時の乗車率ってどうだったんでしょうね?
今みたいなネット予約の手段はナイから、京都駅で「一番早く出る
『ひかり』の指定席」みたいな買い方をしてたのを覚えています。
…毎回よく、ソノ場で満席を避けて買えてたもんだと思うんですよ。
当時は夜行列車も多かったし昼間でも急行を乗り継げば東海道を
渡る事は可能だったワケで、新幹線は空いてたんでしょうか?
ちなみに新幹線などの車内では「停車中にトイレやデッキに行く事」
を禁止されてました。…母は誘拐などの危険性を心配してたワケ
ですが、営利目的でなく「可愛いから攫われる」と思ってたようです。
…要らんお世話ですね。
叔父一家やソレに伴う旅の話は他にもありますので、また紹介する
事にしますが、昭和51年頃の記憶は概ねこんな感じかな?
次回はいよいよ幼稚園に入る年になりますか。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
致しますクラ駅長です。今回は1976年…昭和51年ですね。
…その前に前回の書き忘れなんですが、昭和50年の11月で満3歳
と言う事で、恐らく前年の同月に七五三に連れて行かれた筈です。
年号が曖昧な所ではありますがソレ自体は記憶として残ってるし、
基本的に七五三と言うのは11月頃の行事ですから。
一応は羽織袴のような和装だったんですが、足袋や草履に慣れて
なかったので殆ど父親が抱えて運んでたように覚えています。
それと何か細長い袋を持って記念写真を撮ったのは覚えてますが、
アレが千歳飴だとは当時は全く知りませんでした。
…母親が合成着色料などを嫌ってたので、中身を知らされる事なく
取り上げられたのだと思われます。勝手な話ですね。
では話を昭和51年に戻しましょう。
同年の鉄道史を見れば、特に大きな出来事はなかったようですが
仙台市電や後述する京都市電のカナリの部分が廃止され、札幌市
や横浜市では地下鉄の新規開業が見られます。
…コレまた都市交通の変化と言う点では対照的な出来事ですね。
地元の近鉄では前年に当時で私鉄最長だった大阪線の新青山
トンネルが開通し、同線と鳥羽線の全区間が複線化してました。
昭和51年の春には、ソレに伴うダイヤ改正が行われています。
我が家では2月に祖父が亡くなりました。76歳だったのかな?
当時の葬式って自宅でやるのが一般的だったし、家から墓までは
自動車の霊柩車ではなくだんじりみたいな動力のナイ4輪の車に
棺桶を載せて、親族がみんなで引っ張って行ったのを覚えています。
…昔は火葬場や墓地が大抵は同じ集落内にあり、ソレほど遠く
なかったから可能だったのでしょう。
私はまだ幼稚園にも行ってナイので、日々の生活は前年と特に
変わってなかったと思うんですが、父親とは別に母親にも色々と
連れ回されてた記憶があります。
コレまた年号は不明なものの、恐らくコノ頃で覚えてる話を1件。
…コレは以前にも書いたので、再掲載のような感じになります。
母親は父親より行動範囲が広かったので、電車で大阪や京都へ
出掛ける事が時々ありました。母は京都の大学へ通ってたのと、
当時の友達などを訪ねて大阪辺りへ行く機会があったのでしょう。
で当時、母はメンタル的に色々と病んでたらしく(父親は悪人では
ナイのだが仕事一途な人だったからか?)、軽く自殺を考えてた
時期があったようなんです。
私を連れて京都の町をウロウロして、当時まだ残ってた京都市電に
乗ったり、旅館の2階みたいな所で休憩した覚えがあるんですよ。
…調べてみるに京都市電が全廃されたのは昭和53年の事であり、
その2年前なら京都駅の烏丸口に出入りする烏丸線や河原町線
が残っていました。恐らくソレに乗ったんでしょうね。
で夜の遅い時間(21時頃か?)になって、私が「おうちへかえる」と
言った事で我に返り「この子のために生きないと」と決意したそうな。
…その一言が無かったら私は殺されてたかも知れません。
ともあれ微妙な所で生き残った私は、その後も色々と両親が別々
に各地を連れ回してたようです。
例えば長谷寺(桜井市)の「だだ押し」と言う節分行事にも連れて
行かれたようですが、夜だし寒いし巨大な鬼が出てくるし、私は
単に泣きまくってただけらしいです。
…そりゃそうだろう、現代で夜中にドン・キホーテの店内などで幼児
を連れてるヤンキー一家と方向性は違うものの、結果的には似た
ような虐待行為ではナイのか?意図がイマイチ分かりません。
地元を走る近鉄橿原線は、国道25号線と交差する筒井駅付近が
高架化されてるんですが、その切り替え工事(複線の1本ずつを
高架化する)をリアルタイムで見た記憶があります。
…資料によると、コレが同年から翌52年にかけての事なんですが、
4歳では当然に親に連れられて乗ってる筈ですよね。
時期がはっきりしないものの、遠い所では千葉(船橋市)の叔父の
家にもよく連れて行かれました。
…近鉄で京都まで出て東海道新幹線に乗るのは今と変わらない
ものの、当時の乗車率ってどうだったんでしょうね?
今みたいなネット予約の手段はナイから、京都駅で「一番早く出る
『ひかり』の指定席」みたいな買い方をしてたのを覚えています。
…毎回よく、ソノ場で満席を避けて買えてたもんだと思うんですよ。
当時は夜行列車も多かったし昼間でも急行を乗り継げば東海道を
渡る事は可能だったワケで、新幹線は空いてたんでしょうか?
ちなみに新幹線などの車内では「停車中にトイレやデッキに行く事」
を禁止されてました。…母は誘拐などの危険性を心配してたワケ
ですが、営利目的でなく「可愛いから攫われる」と思ってたようです。
…要らんお世話ですね。
叔父一家やソレに伴う旅の話は他にもありますので、また紹介する
事にしますが、昭和51年頃の記憶は概ねこんな感じかな?
次回はいよいよ幼稚園に入る年になりますか。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
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